Pumpuiさんの“チェンマイ&北タイ旅コラム”

 このコーナーでは、「サワディーチャオ チェンマイ」現地特派員のPumpuiさんからお送りいただいたメールの一部を、編集してコラム形式で公開しています。Pumpuiさんは、バンコクにしばらく滞在した後、2001年チェンマイへと移動、現在は市内某所にあるアパートの一室を賃借して生活の拠点としつつ、北タイ各地および周辺諸国への旅を続けています。Pumpuiさんへの旅に関するご質問は、「チェンマイ情報ボード」(掲示板)をご利用ください。

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■トレッキング

 チェントーンに行った。目的は少数民族の村を訪ねること。ゲストハウスは温水シャワー付で5ドルだが、コストパフォーマンスがタイと比べ物にならないくらい劣る。これが国力の差か……。
 だが、その訪れた村々はそんな不満も吹き飛ぶほどすばらしかった。素朴、と言う言葉でしか表現できない自分が歯がゆい。
 それから数ヶ月、今度はナーンに行った。ピートンルアンの村を訪れるためだった。だが、それは観光化されたものに過ぎなかった。チェントーンのコストパフォーマンスは決して低くなかった。

■ソンテオ

 チェンマイで生活すると、必然的にソンテオに乗らざるを得ない。赤いソンテオは基本的に10B。ちょっと遠めだと、行き先を告げるときに運転手が料金を示してくる。そんな簡単なシステムすら最初は知らなかった。
 しばらくすると、赤いソンテオ以外に「白」「黄」などのソンテオもあることを知る。近郊に走っていることはわかっているが、詳しいことはわからない。さらに、赤いソンテオにも行き先?が正面に書かれているものもあることに気づく。ルートは決まっているのかな?また、同じルートなのに、料金が異なることも増えてきた。どうも、行きと帰りでは料金が異なるらしい?時間帯にもよるし、また、最初の人間だと料金が異なることもあるらしい。
 ソンテオは奥が深い……。

■アパートを探す(1)

 チェンマイに住むことにした。数日、ぐうたらな生活をゲストハウスで過ごした後、重い腰を起こして歩いてみた。しかし、この暑い時季に歩いて周るのは愚行だった。1時間もしないうちにダウンし、この日はヌアット・ボラーン(古式マッサージ)を受けに行く羽目になった。

■アパートを探す(2)

 エリアを考える。チェンマイに住む場合、色々なケースがあると思う。駐在員、現地採用などチェンマイで働く人、大学や語学学校に通う人、ボランティア活動など……。
 バンコクと違って、チェンマイの場合、その生活の基点(職場や学校)となる場所に左右されることなく、エリアを選べるような気がする。(もちろんチェンマイの方がせまいと言うこともあるが)バンコクの場合、バスやBTSの路線を考慮する必要があるが、チェンマイではソンテオもあるし、さらにバイクや自転車でも動けるので、それほど考えなくてもいいような気がする。

■アパートを探す(3)

 行動開始。
 バイクを借りて街を回ってみる。いくらそれほどエリアにこだわる必要はないと言えど、ある程度の目安は必要だろう。私の場合、観光客とは接触したくなかったので、できればターペー門付近は避けたいと考えていた。そして、ターペー門よりも西を考えていた。
 バイクで走ってみると、チェンマイ(中心部)は思ったより狭かった。最初、堀の中も有力候補だったが、思ったほど物件がなかった(探し方に問題あり?!)。歩いて行ける範囲に屋台の多いエリアが希望だ。そして目をつけたのは、チャンプアック門の北とステープ通りだった。

■アパートを探す(4)

 今回の滞在は4〜5ヶ月を目安に考えている。だから家電製品は買わずに、最初から設備の整っている物件を探していた。エアコン付で、冷蔵庫とテレビが欲しかった。そうなると、5,000B前後の物件になるようだった。ホテルなどでも月単位で貸し出しているところも多い。そうしたところはデポジットも不要のようだ。
 目をつけたエリアで、ソイに片っ端から入り、10数軒の物件を見て2軒に絞りこんだ。結局、決め手となったのは通りからどれだけ離れているか、だった。怠け者の私は、ソイが長いと通りに出なくなりそうだったからだ。そして現在の物件に決めたのだが、住み心地はまだ何とも言えない……。

■チェンマイでの新生活

 チェンマイでの生活を始めて数日が過ぎた。東向きの部屋のせいか、朝の日差しは強い。だが、窓も小さいので、それほどの暑さは感じない。
 部屋選びの際、知人から「日本と違って、タイでは日当たりの悪い部屋がいい部屋だ」というアドバイスを受けた。確かにその通りだった……。
 また、この部屋は階も上の方なので、比較的涼しい。窓は小さいが、ベランダに抜けるドアを開け、網戸を使えばエアコンを使わずに済む。暑さに弱い私にとっては珍しい。夜、バイクに乗っているときなど寒く感じるくらいだ。バンコクで寒さを感じたことは数えるくらいしかなかったし、バイクにも乗っていなかったので、ちょっと誤算だった。

■VIPバス

 VIPバスに初めて乗った。年を取ると、長距離移動が苦になるのだが、知人の多くが「VIP999なら何とか大丈夫」と話していた。以前から乗ろうとしていたのだが、なかなか機会がなかったのだ。
 前日、バスターミナルに行ってチケットを購入した。最初売り場がわからなかったが、暇な係員が親切に場所を教えてくれた。バンコクまで625Bだった。
 当日、指定された場所に行くと、すでにバスは入っており、荷物を預けて乗りこんだ。預けた荷物にタグを付けてくれたが、意味はあるのだろうか?
 発車すると、すぐに水と炭酸ジュース、簡単なお菓子が配られた。確かにサービスがいい。だが、驚くべきはそのシートだった。1台24席という極めて贅沢なこのバスの座席は、横幅はともかく、リクライニングは飛行機のビジネスクラス以上のように感じた(ファーストは乗ったことがない)。確かにこれならよく眠れるだろう。

■レンタルバイク(1)

 チェンマイでの生活に「アシ」は欠かせない。自転車も手ではあったが、疲れるのでバイクにする。とりあえず、当分はレンタルバイクでいいだろう。以前借りた時は、1日単位だったので150Bだった。長期にすればもう少し安くなるはずなのだが...。
 ターペー門近辺を中心にレンタルバイク屋を回る。結局、比較的愛想のよかった店で1週間だけ借りて様子を見ることにした。ここは、新しいバイクと古いバイクで値段が違い、もちろん古い方が安い。一応見せてもらうと、思ったほど古くはなくガソリンもそこそこ入っていた(メーターは壊れているけど)。
 以前の店のバイクはほとんど入っていなかったことを考えると、何となくうれしい。

■レンタルバイク(2)

 とりあえず1週間経過したので、バイクを返却。借りる際に、色々と話をしたオヤジ(というより兄ちゃん)が不在で、愛想のよくない小僧しかいなかったので、別の店へ探しに行った。
 ある小さな店でたずねると、結構高い値段を示してきたので、即店を出たが、再度その店の前を通ると声をかけられ、交渉再開。
 どうも、山に行かれるのがイヤなようで、「市内で生活しているんだ」と言うと、すぐに値段は前の店と同水準まで下がった。しかも、今度のバイクは比較的きれいで、走行距離が4万km近くとは思えないものだったので、すぐに借りることにする。書類を書いている間に、オバチャンがバイクを雑巾で拭いていた。うれしいことに、ガソリンも半分以上入っている。
 1週間経過し、返却。
 継続交渉するもののそれ以上は安くならず、1ヶ月単位で借りることを勧められるが、それならばもう少し安くなるはず……というわけで、とりあえず1週間単位で継続レンタル中。
 実際、相場はどれくらいなのだろう?

■タイ人の運転(1)

 バイクに乗る生活も2ヶ月以上経過した。最初は快適に感じたバイクの運転も、最近は怖くなってきた。レンタルバイクは故障が多いとは聞いていたが、確かにこの2ヶ月ちょっとでパンク2回(前後輪各1回)、ブレーキ交換2回、ガス欠1回(自業自得!)のトラブルに見舞われている。しかし、それ以上に怖いのはタイ人の運転だ。1日1回以上は焦って急ブレーキをかけていると思う。 そもそも、タイ人は免許という存在を知っているのか?!

■タイ人の運転(2)

 右折しようとかなり前からウインカーを出して曲がるところ(右折禁止ではない!)で停車したら、後ろから「こんなところで何やってるんだ!」と叫びながら私の「右側」から追い抜きをかけるバイク(お前、ウインカーって知ってるか?)いきなり追い抜きをかけるのはいいが、ウインカーも出さずに、突然前に出て左折する車(お前、巻き込みって知ってるか?)……。こんなのは日常茶飯事である。ソンクラーンの最中に、酔っ払って勝手にコケるバイクは見たことがあるが、某公共施設内(広いがスピードは出せない)の平坦な道で、女子学生が勝手に駐車中の車に突っ込むのを見たのは初めてだった(あそこで、どうやれば突っ込むことができるのだろう?)
 幸か不幸か、私のバイクはそれほどのスピードが出ない。それでも、こんな連中がゴロゴロとしているこの街で運転していると、急ブレーキ(日本の感覚では)を毎日何度もかけることになるのだ。

■タイ人の運転(3)

 タイの免許制度は全くわからない。しかし、先日ある20代女性(某有名大学のマスター在籍かすでに取得済)の運転する車(ダイハツミラ)に同乗したら、彼女は走行中に突然ハンドブレーキで急停車するのだ!!(別に私を驚かそうとしたわけでなく)学歴もあり、車を持てるクラスの人でも、しょせんこの程度の感覚である。“コンビニで免許が売られている”というのも、冗談ではなさそうな気がしてくる。
 最近は、いつ事故るのだろうか、不安で一杯だ。

■タイ人の時間感覚(1)

 ここのところ、タイ人との待ち合わせで痛い目にあっている。そのいくつかをここでは書いてみたい。ある地方都市へ知人を訪ねに行った時のこと。その知人とは、1週間以上前から日程を詰めていた。何時の飛行機で到着するのか、確認の電話が何度もあった。あまりにもしつこいので、荷物も機内に持ち込み到着予定時刻には空港の外へ出られるよう心がけたつもりだ。しかし、空港に到着し、迎えの人ごみの中から知人を探そうとしたのだが、一向に見あたらない。携帯に電話するも、なかなか通じない。20分くらい過ぎてから、ようやくつながった。返ってきた答えは「今、空港に向かっている。あと20分くらいで着くと思う。」というものであった。知人の住む街まで、空港から車で45分程度と聞いていた。どう考えても、到着時間に街を出発したとしか考えられない……。予想通り、飛行機が到着してから45分後、知人と会うことができた。
 さらに帰る時のこと。出発時間を伝えてあったにも関わらず、知人は「出発時間の45分前までゆっくりしよう。」と言う。国内線は、少なくとも30分前のチェックインが必要だ(余談だが、某路線にてこれで乗り遅れた経験がある)。知人は飛行機に乗った経験もあったはずだが、どうやら忘れてしまったらしい。このため、帰る直前は実に慌しいこととなった。

■タイ人の時間感覚(2)

 先日、一時帰国したときのこと。タイでお世話になっている方が日本に来るというので、東京で会うことになった。その日は、京都から新幹線で来るというので、東京駅の新幹線ホームで待ち合わせることにした。ただ、時間については前日まで決められないので、電話をもらうという約束だけして、タイでは別れた。そして、前日ではなく数日前に時間の指定があった。その時も「新幹線ホーム」で待ち合わせること、新幹線ホームはいくつもあるので、乗ってきた新幹線が到着したホームでそのまま待っていてほしいこと、を念を押して伝えたつもりだ。この方は、外国人と接する機会も多く、時間感覚もタイ人にしてはキチンとしており、実際タイで待ち合わせをした時は、私の方が後から着くケースが多かったくらいだ。だから、当日も待ち合わせより30分ほど前に東京駅に着くようにした。そして、大阪方面からの新幹線が入線するたびにホームの端から端までこの方を探したが、いつまでたっても見つけることはできず、約2時間これを繰り返した(ちなみに東京駅の東海道新幹線のホームは、3つのプラットホームで計6番線あった)。結局、会うことはできなかった。
 タイに戻ってから会った時この日の話をしたところ、どうも私の自宅方面からの列車が到着するホームで待っていたらしい。しかし、実のところ、日本に着いて10日以上が経過した時期だったので、会うのが面倒くさくなったのではないか、と推測している。というのは、「東京では、疲れてどこにも行かなかった」と話していたからだ。
 タイ人と待ち合わせをする時は、ホントに疲れる……。
 ところで、バンコクではBTSが開通して以来、待ち合わせに遅れた時に渋滞を理由にするのは難しくなってきていると思う。一体、どういう理由をつけているのだろう?

■バイクを買う(1)

 レンタルバイク生活が長く続いたが、それはそれで不都合な点も多い。一般的に言って、バイクを借りる場合にはデポジットとしてパスポートを預けなければならないことが多いが、これは、私の場合別途5,000Bを支払うことで解決した。しかし、最近では1週間単位でチェンマイを離れることも多く、契約期間との兼ね合いが難しくなってきた。
 私が使っている店は、30日間の契約をすると、使わない日数をレンタル期間から除外してくれた。つまり、あと10日ほど契約が残っている時点でチェンマイを離れる場合、バイクを返しておけば、戻って来てから残存期間を引き続き借りることが可能、というシステムである。しかし、このシステムを利用しても、ここ数ヶ月はかなり出入りの激しい生活をしていたので、面倒であることにかわりはなかった。
 だた、滞在期間のメドもついてきたことだし、“そろそろ自分のバイクを買おうかな”と考えはじめた。

■バイクを買う(2)

 とはいっても、外国人である私がバイクを所有できるのであろうか?
 調べてみると、ノンイミグラントビザを所有していれば、外国人名義も可能らしい。幸いなことに私はそれを所有しているので、この問題は難なくクリアできた。日本人の中には、タイ人の名義を借りて所有している人も多いらしい。色々と話を聞くと、あえて自分名義にしない方が都合がいい、と考える人もいるようだ。ただ、私の場合そこまで信頼できる親しいタイ人もいないので、自分名義とすることにした。
 以前、タイでバイクを買った知人の紹介で、中古屋を見に行く。彼が以前来た時よりも台数はずいぶん少なかったそうだが、それでもかなりの数のバイクが置いてあり、選ぶのに苦労した。
 日本でも中古を買ったことのない私は、なかなか選ぶことができない。それでも、数台に絞り込んだ後、エンジンの一番まともそうなやつを選び、手付金を払って店を後にした。

■バイクを買う(3)

 後日、イミグレーションへ「在留証明書」を取りに行く。これは、ノンイミグラントビザがないともらえない。私はイミグレーションに行ったのだが、日本領事館でも発行してくれるそうだ(値段は異なるらしいが)。イミグレーションへビザ延長以外の用で行くのは、これが初めてだ。
 いつもと違う建物に行って「在留証明書がほしい」と言うと、所定の用紙に記入するよう指示される。それにしても、ビザ延長の窓口と違って応対が非常に丁寧なのに驚いた。例えば、パスポートのコピーが必要だったが、係官がただでコピーしてくれた(延長の場合、窓口の裏でコピーしてくるよう指示され、1枚2Bも取られる)。証明書は約30分ほどで発行され、値段は100B。これで、バイクの名義を自分にするための準備が整った。

■バイクを買う(4)

 再び、中古屋に向かう。
 営業担当の兄ちゃんは若くてハキハキしており、まさに営業マンタイプ。ただし、バイクの知識はあまりないようで、アドバイスは参考にならない。今回は、正式に購入ということで現金を持って来店したためか、冷房の効いたオフィスの中での対応となった。手付金以外の料金を説明され支払を済ませると、登録などのため、オフィスのそばにある別の事務所に連れて行ってくれる。すべてタイ語による応対だったが、特に問題もなく言われるがままにサインなどを済ませた。外国人にとっては、こうした手続きは不安を感じるので、この種のサービス(?)は非常にありがたい。手続きの間、購入予定のバイクは最後の整備点検が行われていたようだ。手続きにはおよそ1時間かかったが、整備はまだ終わっておらず、さらに1時間ほど待たされた。なお名義についてだが、この段階では正式に私にはならず、約1ヶ月半後になるという。理由は定かではないのだが……。

■バイクを買う(5)

 受け取ったバイクに乗ってアパートに戻る。実際に走ってみると、いくつもの不具合を感じてしまった。一番気になったのは、エンジンの回転数がかなり不安定であること。店でふかした時はぜんぜん問題がなかったのに、しばらく走ってみると、Nの状態でも回転数が落ちないようだ。さらに、ブレーキも甘い……。
 そんな状態で戻って来たのだが、運よく在住のAさんと会う機会があった。「バイクを買ったのだが調子が悪い」と話をしたら、「じゃあ、ちょっと見てあげましょうか?」とうれしい申し出があったので、ありがたく見てもらうことにする。Aさんは、特にこの種の仕事をしていたわけではないのだが、なぜか何でも自分で直してしまう、不器用な私からすればうらやましい人だ。
 早速、Aさんの自宅に行ってチェックしてもらう。すると、エンジンオイルが漏れていることを指摘された。前のオーナーはこの状態でだいぶ走っていたようで、すでにエンジンがいかれつつあるらしい。実際、Aさんがエンジンオイルを補給してみると、相当な量のオイルが入ってしまった。この件と回転数の問題は、整備工場に行って部品を交換する必要があるという。チェンマイに限らず、タイでは整備工場のレベル差も大きく、下手なところに行くとかえってひどくなって戻って来ると聞いたことがある。そこで、Aさんにお勧めの整備工場を教えてもらい、後日行くことにした。ブレーキをはじめ、その他気になる細かい点については、Aさんが色々といじくってくれて、何となく直ってしまった。

■バイクを買う(6)

 後日、Aさんに教わった整備工場へ行く。エンジンオイルが漏れてしまっていること、回転数が不安定なことを告げ、この点を直してほしいと注文する。2時間ほどかかるというので、いったん店を後にした。指定された時間に店に再び出向くと「まだ終わっていない」と言う。どうやらこれから始めるところのようだ。タイらしいといえば、タイらしいが……。
 結局40分くらい待って、ようやく修理が終わった。店でエンジンをかけると直ったように思えたのだが、店員の話ではエンジンがだいぶやられているという。「少し乗ってみて、問題があったらもう一度来てくれ」とのこと。どうも、閉店時間を過ぎてしまったので、店員も早く帰りたかったらしい。これがタイだ……。
 さて、実際に乗ってみると、オイル漏れは直っていたが回転数の不安定さは変わっていなかった。再びAさんに相談し、今度は一緒に工場へ行くことにした。整備工場に「**の部品を換えてほしい」と具体的に注文しなければダメなようだ。
 言われた時間に行くと、今度はきちんと修理が終わっており、Aさんが指摘した部品も交換されていた。会計を済ませ、店先でAさんと一緒にバイクをいじっていると、顔なじみになった工員に「まだ何か気になる?」と話しかけられた。注文した件とは別のことで気になる点があったのでそれを伝えると、彼はおもむろに調整し始めた。やはり、工員というのはバイクをいじるのが好きなのだろう(もちろん、営業的な意味合いもあるのだろうが)。修理しながら工員が「これ、買う前に整備されていないと思うよ」と言った。だとすると、中古店でのあの2時間はいったい何だったのだろう???結局、部品交換を勧められ、予想外の出費を強いられた。
 さて、実際に走ってみると、以前ほどの不安定さはなくなったものの、満足するレベルには至っていない。しかし、しょせんは中古、この辺が限界なのだろうか。当分は整備工場との付き合いは続きそうだ。今はこのバイクとの付き合い方をどうするか、頭を悩ませているところだ。
 レンタルはレンタルで、自己所有は自己所有でバイクについての悩みは尽きない……。

■タイ人とカラオケ

 タイ人とカラオケに行った。10人以上いたが、日本でいうカラオケボックスのような作りの店であった。
 日本だと、全員が均等になるカンジで曲を入力し、順番に歌っていくパターンが多いと思うのが、ここでは2〜3人が何曲も入力しはじめた。しかし、曲が流れても誰も歌わない……。しばらくすると、マイクが回されて歌い始めたが、曲を入れた人間が歌うのではなく、みんなで合唱するようなスタイルだった。もちろん、マイクを持っている人間はいるが、その人の声が特に大きいわけでもない。
 日本では個人個人が別々に歌うケースが多いが、タイ人はみんなで合唱するのが好きらしい。しかし、バラードなど自分一人で雰囲気に浸りたい時でも合唱になってしまうので、そういう気分の時には、タイ人と一緒に行かない方がいいかもしれない。また、ある程度タイ語のできる外国人は、カラオケでタイ語を練習することがあるかと思う。タイ人も、英語の練習なのか、英語の曲がだいぶ選ばれていた。
 ところで、タイ人は大声で歌うのが好きでないのだろうか?マイクを使ってはいるものの、合唱するケースが多いせいか、ひとりの声が目立つことは決してない。ある在留邦人に後から聞いた話だが、絶叫して歌ってみたら、タイ人は引いてしまったらしい。
 絶叫型の曲を入れておいたものの、時間切れで歌う機会のなかった私は“助かった”と思った次第である。

■センチメンタルなクリスマス(1)

 「じゃあ、一緒に帰る?」
 クリスマスを数日前にしたある日、知り合いから意外な申し出があった。僕は、その時山岳民族であるその知り合いと、彼らの習慣について話をしていた。この知り合いの故郷の村は村民全員がキリスト教に改宗しており、クリスマスには何らかのイベントが行われるという。僕が興味深そうに話を聞いていると、相手から先のような申し出があり、もちろん僕は了承した。バスで1時間、ソンテオ2時間、さらにそこからバイクで……、という話と一緒に。
 バスを降り、ソンテオに乗り換える。ちょうど目的のソンテオが出発するところであったのだが、あまりの混雑ぶりにちょっとビビッてしまい、さらに知り合いが買い出しをしたいということなので、一人でソンテオのそばに立っていた。しかし、そうしている間にも次々と乗客が現われ、“はたして我々の乗るスペースはあるのだろうか?”という不安が最高潮に達したころ、知り合いが買い出しから戻って来た。どうやら僕は外国人いうことで、助手席を確保しておいてくれたらしい。
 ソンテオは、ゆっくりと出発した。屋根の上にまで乗っている客、そして荷物……。さらには坂道が続くということでスピードは出せず、ゆっくりと山道を登って行く。あとで計算すると、時速30km以下というスピードだった。
 ようやく目的地に到着。ここからバイクに乗って村に行くという。バイクタクシーもあったのだが、村人が迎えに来てくれていたので、それに乗ることにする。未舗装のアップダウンの道が続き、若干の恐怖を感じつつも、無事に村に着いた。日没前に到着して助かった、と心から思うような道のりであった。というのもこの道中、外灯はもちろんなく、それどころか村そのものにも電気が届いていない、という話を聞いていたからだ。僕ひとりであったら、きっとこの未舗装のアップダウンが続く道を運転することはなかっただろう。
 薄暗くなったころ村に到着した僕は、知り合いのご両親に挨拶し、今夜泊まらせてもらう許可を得た。本来なら村長に頼むところであろうが、知り合いが特に紹介しなかったので両親に許可を得たのであった。が、この両親が事実上村(と言える規模ではないが)のリーダーであった。村には、子供たちが数多く住んでいた。夕暮れ時、子供たちは山の斜面を利用して輪っかを転がしたり、木にぶら下がったり、日本のメンコのような遊びをしていた。カメラを向けると恥ずかしそうにしながらも、実は撮ってほしいという気持ちが見え隠れしていた。

■センチメンタルなクリスマス(2)

 “電気が来ていない!”この言葉にかすかな恐怖(?)が生まれていたのは事実だ。12月末の山の中である。チェンマイに住むタイ人の友達にこの村を訪れるという話をした際、みんなに「寒いから服はいっぱい持って行けよ。」と言われた。当然ながら、お湯のシャワーを浴びるのも不可能な環境だ。
 しかし、実際にはこの知り合いの家にだけ電気が来ていた。つい最近、お金を払って電気を引いたという。といっても、明かりとしては蛍光灯1本だけなのだが。しかしながら、これまで電気と無縁の生活を送っていた村人にとって、その変化は僕らが考える以上のものがあったに違いない。
 “電気がないと、娯楽もないのでは?”と思っていたのだが、この知り合いの家に電気が来たこともあって、村人は夕食が終わるとこの家に集まるのが日課になっていた。それは、この家にはテレビがあるからだ。といっても、アンテナがないのでテレビの電波を受信するのは無理なようで(パラボラアンテナが必要という話だ)、タチレクなどで購入したVCDを見るのがここ1ヶ月の最大の娯楽だそうだ。タチレクに限らず、タイには違法コピーのソフトが氾濫しており、格安で購入することができる。そんなVCD(主にカラオケと映画)を鑑賞するのだという。
 私も一緒に見ていたが、画質がかなりひどく後半は満足に見られたものではなかった。しかし、これまでテレビすらまともに見たことのない村人にとっては十分なようだ。老若男女問わず、みんなが夢中になっているのを見ていると、色々なことを考えさせられた。例えば、旅行者によくありがちな“いつまでも、素朴なままでいてほしい”などということが、外部の人間の勝手な戯言であることとか……。
 電気が来たことによって、この村に今後どのような変化が起こるのだろうか。いつまでも見届けるわけにも行かないが、できるだけ見続けていたい、と少々センチメンタルな思いにひたってしまった。

■旧正月(1)

 旧正月とは、中国正月のことを指す。この期間、中国人は祭りを盛大に行うのだが、山岳民族の中にもこの正月を祝うものが多いと聞く。せっかくチェンマイに住んでいるのだから、彼らの正月がどんなものであるのか知りたいと思い、村を訪ねてみることにした。
 最初は、以前行ったことのある、知人の住む山岳民族の村に行こうと思った。その村は違うが、周囲には中国系の人々が数多く住んでいるので、何かあるのではないかと思ったのだ。知り合いに相談すると「うちの村は何もやらないけれど、近くの村は色々とやっているよ。行ってみたら。」と薦めてくれた。今回、この友人は仕事の都合で山には帰れないので、一人で行くこととなった。バス、ソンテオ、そしてバイクタクシーと乗りついで、その村にたどり着いた。知り合いが連絡しておいてくれたようで、村での宿泊は問題なく許可された。話を聞くと、この村の住民自体はクリスチャンに改宗しており、中国正月を祝う習慣はないという。最も盛大なお祭りは、クリスマスだそうだ。
 中国正月当日、朝から爆竹が山々に鳴り響いた。平野の街のそれと比べると音は大きいものの、1日中鳴り続いているわけでもない。村人のバイクで、周囲の村をまわってみた。しかし、爆竹は盛大に鳴り響いているものの、考えていたようなお祭りはどこもやっていない。“何か、違うなあ……”と思いつつ、この日はおとなしく村に戻った。少しがっかりしていたら、村人が「夜になると、少し先の大きな街で縁日があるよ。」と言うので、村の子供たちと一緒に行ってみることにした。
 会場までバイクで行ったのだが、そこはまさに縁日であった。いくつもの露店や屋外ボクシング、そしてお決まりの観覧車とディスコ……。村の子供たちも、これが楽しみでやってきたのであった。私が世話になっている家では、行く前に子供が親に小遣いをせがんでいた。とにかく遊びたい盛りのようだ。しかし、一体ここに来て何に使ったのだろう?
 ディスコには外国人は皆無に等しかったが、私が目立つこともなかった。街のディスコでは年齢制限が厳しくなっており、入場の際IDを見せることを義務づけている店が多いのだが、ここはそんなチェックなどない。IDなど持たない山岳民族が多いことに配慮しているからだろうか、それとも警察がいないからだろうか。縁日の会場に入るために1日20B、ディスコはさらに20B払う必要がある(1回払えばその日は出入り自由)。子供たちにせがまれディスコに入り、一緒になって年甲斐もなく踊ってしまった。しかし、一応保護者として来ているので、子供たちの様子に気を配る必要もあった。実際、この日はケンカがありビール瓶などが飛び散る事態も起きていた。それでもまだ、バンコクと比べればマシかもしれないが。

■旧正月(2)

 翌朝、物足りなかったものの、村を後にした。本当の中国正月はこんなはずじゃあないと思い、山を下りてから最近知り合ったYさんに話をしてみたところ「じゃあ、リス族の村にでも行ってみますか?」との誘いを受け、翌日そこに行くことにした。
 車で街から3時間、4WDでないととても進めない道をYさんの運転で車は進んだ。3時間のうち、舗装されていたのは半分くらいだろうか。この時期は雨もほとんど降らないため、土埃がすさまじく、窓を開けてはいられなかった。逆に、雨期にこの道を車で行くことも困難であろう。やはり、時期を考えると旧正月の頃がベストではないだろうかと思う。途中、何度か坂を登れずにエンストすることもあったが、本などでよく見るリス族の衣装が目につきはじめ、目的地が近づいたことがわかった。「やっと着いたようですねえ……。」と話していると、街道に面した家から、若いリス族の娘が華やかな衣装を身につけてどんどん出てくるではないか!「今日は、もう少し上の村で祭りをやっているから、今から踊りに行くのよ。一緒に行かない?」と、ありがたいお誘いの言葉を受ける。喜び勇んで、10分ほど車で山をさらに登り会場に到着した。
 そこは、まさにリス族の楽園であった。私は、山岳民族の衣装ではリス族のそれが一番好きなのだが、今日は正月用の衣装を身につけたリス族が数10人、いや100人以上いるのではないかと思われる場面に出くわしたのである。こんなにうれしいことはない。これまで、三輪隆氏の本にあるドイチャーンの旧正月を撮影したものが一番印象に残っていたのだが、ここはそれをはるかに上回る数のリス族がいる。おそらく、周辺のリス族が集まったのではないだろうか。そうでもないと、これだけの数が集まるとは考えにくい。
 すでに踊りは始まっており、輪を作って踊っていた。輪の中心に音楽を奏でる年配の男性が陣取り、そのリズムに合わせてステップを踏む。そのうち、Yさんとともに輪の中に入って一緒に踊り始めた。リス族の踊りは単調なリズムであるが、なかなか足が合わない。それでも、見知らぬ異邦人を受け入れてくれるホスピタリティはうれしかった。
 リス族の衣装は、他の山岳民族のものよりも派手な感じがする。しかし、正月用の衣装はそれに輪をかけて派手だ。きれいなピンク色の衣装に、銀の飾り、そして帽子(?)……。この踊りは一種のお見合いであり、年に一度自分の美しさを演出する貴重なチャンスであるはずだ。“できるだけきれいに見せたい”と思うのは当然のことであろう。男性も、写真で見たことのある黒い正装といえるような衣装を身につけていた。また、輪の外にはこうした衣装を身につけず、ただ見ている人も数多くいた。彼らは、この村でリス族と共に暮らしているアカ族のようだが、祭りには参加していない。さらに、今どきのタイ人の服装をしている人も多い。普段は街で働いており、正月ということで戻ってきたものの、都会に染まり村の祭りには溶け込めないのだろうか……。同じ村でも貧富の差は当然あり、衣装を揃えられなかった娘もいるに違いない。少数であるが、タイ人観光客も来ていた。しかし、明らかに外国人とわかるのは我々だけだったと思う。

■旧正月(3)

 3時間ほど滞在して、暗くなる前に山を下りることにした。あの道を夜走るなんて、とても考えられないからだ。夕方には街に着いたが、まだ時間もあるのでそれほど遠くない郊外のラフ族の村にも行ってみることにした。実は、ラフ族にはファーンで嫌な思いをした経験があるので躊躇したが、この村はYさんが何度か行っているとのことで、交流を図るのはむずかしいことではないそうだ。
 途中、差し入れを購入してから村に向かった。このラフ族の村では、今夜は20時ごろから踊りを始める予定だという。村といっても、小規模なところである。昼間に行ったリス族の村と比べるまでもないが、Yさんが何度か行ったことのある村でもあり、コミュニケーションを取るのは容易だった。しかし、ある若者がすでに酒に酔っており、しつこくからまれたのには参った。
 20時をはるかに過ぎて、ようやく踊りは始まった。ラフ族の踊りは、リス族のものと違っていくつものパターンがあった。特に印象的だったのは、地面を叩くようなステップがあったことだ。リス族が同じステップをずっと続けるのに対し、ラフ族はひとつのステップが終わると、音楽を中断し別のステップへと移っていった。
 先ほど酔っ払ってからんできた若者は、踊りが始まっても足元がおぼつかず、何度も倒れてしまうにもかかわらず踊ろうとしていた。わざと女性のほうに倒れようとしているように見えなくもない。そのため、村の女性たちからは逃げられていた。何か、失恋でもしてヤケを起こしているのだろうか……と思わせるくらい、自虐的な行為だった。リス族同様、ラフ族にとっても今晩の催しはお見合いを兼ねているはずである。あんな振る舞いをして、彼は大丈夫なのだろうか。他人事ながら心配になった。
 しばらくは踊りを見ていたが、寒くなってきたので家に入ることにした。かろうじて電気の届いているこの村だが、その家には1台のテレビが置かれていた。彼らが見ていたのは、どこから手に入れたのか、別の村の正月と思われる光景をビデオに収めたものだった。「ほかの民族の踊りを見て、新しいステップでも考えているのかな?」とYさんと話したものの、なぜそんなものを見ていたのかはわからない。
 眠くなってきたので、村を後にすることにした。Yさんの知り合いのおばさんに挨拶をすると、「また、来年もおいで。」と言って布でできた腕輪を手首に巻いてくれた。“また来年も絶対来よう”と、心に決めつつ村を後にした。

■旧正月(番外編)

 タイの山岳民族の村をまわった後、ビルマに向かった。ヤンゴン、カロー、ニャウンシュエ(インレー湖)と旅した後、今回の一番の目的地、チェントンヘと向かった。ヘーホーからチェントンへは空路で行くしかないのだが、チェントンに着く直前に飛行機がかなり揺れた。この辺の気流は安定していないことが多いようだ。
 2年ぶりのチェントンだ。空港から、以前泊まったゲストハウスまでバイクタクシーで向かう。ゲストハウスの主人は、2年ぶりに訪れた私を覚えていてくれた。しばらくすると、前回の滞在中にガイド役となってくれた運転手もやってきて、しばらく昔話に花を咲かせた。余談だが、私は会話に限れば英語よりもタイ語の方がマシである。ビルマ国内では、英語でのやり取りに疲れてしまったのだが、チェントンでは私のタイ語でも十分にコミュニケーションが可能であり、うれしくなってかなり話をしていたような気がする。
 ゲストハウスの主人に「2年前同様、できるだけ村をまわりたいからセッティングしてほしい。そして5dayマーケットにも行きたいけど、いつ開かれるかわかる?」とたずねてみた。彼はカレンダーを見ながら「明日だ、明日!明後日もあるぞ!」と教えてくれた。さらに「そういえば、明日はワ族の村が正月のはずだ。今からちょっと様子を見に行かないか?」と言うので、彼のバイクで行ってみることにした。
 舗装路をはずれると、一気に山道だった。小石が散りばめられたその道を、ゆっくりと進んでいく。ワ族は、麻薬を生産しているとかビルマ政府と交戦しているとか、いい噂はあまりないのだが、行った村は極めて平穏だった。明日からの正月を祝う準備で忙しそうにしていたが、村長にも挨拶した。ここでもタイ語が通じたのはうれしかった。ゲストハウスの主人も、明日から正月が本当に始まるのか不安だったので確認したかったのだろう。これで、宿に泊まっている白人をこの村に連れて来ることができると喜んでいた。村長からの夕食の誘いをありがたく受け、外灯のない暗闇の中、チェントンに戻った。
 翌日、ゲストハウスに泊まっている白人3名と私の計4名、それにガイド3名(暇だったらしい)と運転手で、ワ族の村に再び向かった。村に着くと、すでに踊りは始まっていた。これまでに見たリス族やラフ族と違い、ここでは歌いながら踊ることが多いようだ。人数は多かったが、衣装の派手さはリス族の方が明らかに上だ。これは、山岳民族といえどもタイとビルマの経済格差なのだろうか……などと考えてしまう。実際、その後近郊に住むというリス族が踊りを披露したのだが、先日見たリス族ほどの豪華な衣装ではなかった。ワ族の踊っている人たちの表情はとても豊かで、政府軍と対立している民族とは思えなかった。写真を撮っていると「一緒に踊らない?」と誘われた。例によって輪に混じりステップを踏むのだが、なかなか思うように行かない。笑われつつも、見よう見まねでステップを踏んでみた。一応は、さまになっただろうか……。その後、ショーのようなものも始まった。どういうグループかわからないが、歌を歌ったり踊りを披露したりが繰り返される。舞台の裏では、大量の料理が準備されていた。
 この会場は、村の一番高い丘に位置している。車は村の入口に止めてあり、そこから歩いて会場にやってきたのだが、その途中にはいくつもの店が開かれていた。村人相手の賭けごと屋(何と呼んだらいいかわからないのでこう名づけてみた)や飲みもの食べものを売る店がいくつも出ていた。喉がかわき、ジュースを買おうとタイ語で聞いてみると、思いっきり通じてしまった。聞いてみると、チェンマイのカードスワンケーオで数年間働いていたことがあるそうだ。チェンマイの私が住んでいるエリアも、すぐにわかったようだ。「君は何族なの?」とたずねてみたが「コンドイ(山の民)よ。」という答えしか返ってこない。そんなのを気にするのは、外国人だけなのだろうか?お昼になると、会場で食事が振舞われた。決して裕福でないはずなのに、しかも我々はガイドには金を払ったが彼らには直接金を払っていないので、恐縮する。それでも、タイ料理よりも日本料理に近い味つけの山岳民族の料理は好きなので、遠慮せずに食べてしまう。スプーンとフォークではなく、箸を使うのも何となくうれしい。
 イベントは佳境を迎えたようだが、私は飽きてきたので村をふらついたり、先ほどジュースを買った店で座りながら娘と話をしていた。すると、何度か写真を撮ったワ族の娘たちが「今からそこの山に登るけど、一緒に行かない?」と誘ってくれた。山といっても小高い丘で、そこには仏陀が祭られていた。10分ほどで着くということなので、一緒に歩くことにした。彼女たちは民族衣装を身につけていた。しかし、この山中を歩いていく途中思わぬことに気づいた。彼女たちは、衣装の下に何とジーンズをはいているのである。一瞬興ざめしたのだが、まあそれが今どきの山岳民族なのかもしれず、こっちが勝手に質素だとか貧しいとかイメージを作り上げているに過ぎないのだろう。彼女たちは、正月ということで民族衣装を身につけているのだろうが、普段はジーンズなど平地民族と同じような衣装をしているに違いない。我々がイメージする山岳民族の衣装は晴れ着であり、現代では何かイベントがある時にだけ着用しているのではないだろうか。それにしても、ジーンズの上にさらに民族衣装を身につけて暑くないのだろうか?と心配するのは大きなおせっかいか……。
 お参りを済ませると、彼女たちは村に帰るという。どうやら、かなり遠くの村からやって来ているようで、暗くなる前に帰らねばならないそうだ。“来年も会おうね”などと約束して、彼女たちと別れを告げ、自分もチェンマイへの帰途についた。

■チェンマイに住む

 バンコクに住む友人の多くは、「チェンマイは旅行するにはいい街だけど、住むには退屈な街だと思う。」と言う。とりわけ、スクンビット通り沿いのコンドミニアムに住み、日本語でこと足りてしまう環境に慣れてしまうと、チェンマイに住むことは難しいのかもしれない。バンコクで、日本の金銭感覚で生活できれば日本と同様、いやそれ以上に物質的には豊かな生活ができる気がする。日本食も娯楽も、豊富に揃っている。こういう暮らしから離れられない人は、確かにチェンマイには住みにくいだろう。
 だが、そういうことを言う友人も、実際にはチェンマイは旅行で来ただけで、生活した経験のある人は少ない。1〜2泊から、長くても1週間程度滞在した経験があるだけという人がほとんどだ。
 チェンマイに住む人の多くは、バンコクにも滞在した経験のある人だ。そして、バンコク(あるいはその他の街)とチェンマイを比較した結果、チェンマイを選んだのではないだろうか(筆者はこの部類に入る)。
 チェンマイの魅力については語られ尽くされた気がするが、筆者個人がバンコクとの比較という点で言うのであれば「空気のよさ」と「静けさ」をあげる。バンコクの大気汚染は、不快指数を倍増させる。車という移動手段を持てば「熱気」からは解放されるのかもしれないが、慢性化した渋滞に悩まされ続けるはずだ。最近、チェンマイでも渋滞が発生しつつあるようだが、バンコクとは比較にならない。チェンマイでバイクを移動手段にすると、マナーの悪さには閉口するが、遠出をしない限り十分用は足りると思う。最近、頻繁にバンコクに行っているのだが、用事を済ませようとすると、時間がすごく早く過ぎるように感じる。しかしそれは、ただ単に移動に時間がかかっているだけだという気がする。チェンマイに長くいると、時間感覚もチェンマイ化されてしまうらしい。そして、バンコクのあの騒音……。世界中の大都市のほとんどがこの問題を抱えているが、バンコクもその例にあてはまる。とにかく、バンコクという街は住んでいると頭の痛くなる街なのだ。

 それでも多くの外国人がバンコクに住み続けるのは、利便性を求めることもあるだろうが、タイの他の街の魅力を知らないだけなのではないだろうか、と思うこともある。先日、バンコクに長く住む友人がチェンマイにやって来た。わずか2泊の短い滞在であったが、観光スポットを回らず、バイクを借りてのんびりと、そして食事も観光客の行くような店でなく、タイ人しか入らないような店を周って過ごしていた。これまで、彼はいわゆる“観光”という面でしかチェンマイを見ておらず、「チェンマイには住めないなあ。」と話していたのだが、今回の滞在で「この街に住みたい!」という思いを抱いて、バンコクに帰っていったのだった。

■日本語

 最近、日本語の堪能なタイ人と話す機会が多い。この場合の“日本語の堪能な”という意味は“日本語を話すことによって、収入を得ることができるレベル”である。つまり、日本語通訳といっても差し支えないくらい流暢に使えるということだ。
 ある日、ひとりの女性と会話していると、どうも“口調が強い”感じが気になってならなかった。命令口調ではないのだが、なんとなくトゲトゲしいというか、少なくとも相手に好感を持たれるような話し方ではなかった。もちろん、実務上はまったく不便なこともなく、かなり気を使っていただいた、と思えるくらいだったのだが……。
 その直後、別の男性と話す機会があった。タイの大学で日本語を学んだ後、数年間日系企業で働き、さらに再び大学院で日本語を学んでいる男性である。男性でもあり、親しみやすいキャラクターもあったからだろうが、こちらとしてもとても話しやすく用件はスムーズに終わった。実務上の話を終えて雑談になった時、「***さん(先ほどの女性)、どうですか?」と彼がたずねてきた。理由を聞くと、「彼女(彼にとっては先輩にあたる)、とても僕には優しくしてくれて、色々教えてくれていい人なんですけど、日本人は彼女のことを怖いっていう人が多いんです。」と話してくれた。おそらく彼がこんなことを話してくれたのは、私が何度か彼と話をしているからだろう。そこで、私は彼女の口調が強いからではないかと、自分の感想をストレートに述べてみた。話す日本語が完璧になればなるほど、我々は相手を日本人とまったく同じだと錯覚してしまう気がする。だが、しょせんネイティブではないのだから、相手に過剰な期待を持つことは禁物だ。
 タイ人ではないが、古い友人に某国で旅行代理店をやっている男がいる。彼は、「日本語は3番目に得意な外国語だ。」と言うし、旅行業をするにあたっては、不自由しない程度に日本語を操る。タイにいる日本語ガイドと比べると日本語能力は若干落ちるかもしれないが、チケットやホテルの手配といったレベルであれば、普通の日本語でこちらの希望を言ってもまったく問題なくこちらの意思は通じる……、そんなレベルだ。話し慣れれば日本語での意思疎通はそれほど難しくはないわけだが、ひとつだけ気になることがある。それは本来「あなた」と言わなければならないところを「あんた」と言うくせだ。どうも、初期の学習段階でこのように間違って覚えてしまったらしく、注意する日本人もいないのか、直そうとする気配もない。その言葉のニュアンスの違いに、あまり気がついていないのだろう。
 そんなことを思い出しながら、自分がタイ語を話す時のことをふと考えてみた。確か、タイに住み始めて1年もしない頃だったと思うが、あるイベント会場に行った時、係員と言い争いになったことがあった。この時同伴していたタイ人に「お前のタイ語は相手を怒らせるタイ語だ。」と言われ、その後のやりとりはすべてこのタイ人にまかせ、トラブルは解消した。以来、タイ語を話す時にはなるべく軟らかく話すように心がけてきたつもりだが、もしかしたら気づかないうちに自分もタイ人を怒らせているのかもしれない、と思う。
 改めて、外国語を話す難しさを痛感する今日この頃だ。

■チェントーンでの旧正月(1)

 「じゃあ、チャーターすればいいんだろ!!」
 ほとんどヤケになり、思わず叫んでしまった。

 タチレクからチェントーンまで車で行くつもりで、街はずれにあるタクシー乗り場までやってきた。年末にチェントーンから戻ってくる時だいたいの相場がわかったので、今回はそれに準じて値段交渉を考えていたのだ。しかし、ドライバーの言い値は、どの車も予想価格の2倍以上であった。「旧正月だから、特別料金だ。」どのドライバーも、そう言って値段を下げる気配はない。そんな値段交渉のさなかに、1台の車が出発していった。こんな値段でも、やはり旧正月ということでチェントーンに向かう客は多いのだろうか。それでもあるビルマ人とタイ語で話してみると、予想以上に値上がりしていてあきれている様子だった。そして、若干の値引きをしてくれた車と契約した後、ドライバーが人数集めを始めたのだが、一向に客を取れない。どうやら、あまりの値段の高さにチェントーンへ向かう客はワンボックスカーやバスを利用しているようなのだ。

 客集めに2時間が経過……。1月の寒い時期とはいえ、日中はやはり暑い。暑さといらだちのあまり、客を集められないドライバーとちょっとした言い争いになり、思わず叫んでしまったのが冒頭の言葉であった。

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 旧正月が近づき、どこでその時を迎えるか悩んでいた。最初は、昨年の旧正月に行ったリス族の村に行くつもりであった。かなりの数のリス族が集まり、民族衣装を身につけたリス族の写真を撮るには、最適な場所に思えたからだ。しかも、昨年は途中でカメラが故障し、思うような撮影ができていない。そんな悔しさもあり、今年もその村に行くつもりで情報収集を行っていた。しかし、昨年同行したYさんに「同じところに2年連続で行くと、後悔することが多いよ。」と言われ、考え直してみた。そういえば、クリスマスも2年連続で同じ村に行ったらイベントの指向が変わってしまい、がっかりしたのだった。今回は、約2週間で北タイとチェントーン近郊をまわってからヤンゴンに抜け、ヤンゴンからバンコクに戻る予定だ。12月にチェントーンで話を聞いていたので、旧正月のイベントの日程はだいたい見当がついていた。チェントーンで長めに滞在するか、昨年と同じ村に行くか……。結局選んだのはチェントーンに滞在することだったのだが、このタクシー・ドライバーとのやり取りで、すでにその選択を後悔していた。
 結局、タクシーは言った通りチャーターの形になってしまった。翌日はチェントーンでイベントが行われることがわかっており、そのイベントのために時間の都合をつけたのだから、何としてでも行かねばならない。そんな気持ちが顔に出てしまったのだろうか、どうもタチレクという街は相性が悪い。

 ところどころ、村とも言えない規模の集落を通り過ぎながら、車はチェントーンへと向かって行った。この道路は、以前に比べだいぶ状況が改善されている。チェントーンのガイドは「ビルマで最もいい道だ。」と言ってはばからない。起伏がそれほど激しいわけでもなく、ところどころ崖を崩して道を切り開いたところがあり、見晴らしもいい。検問をいくつか通り過ぎ、車は無事にチェントーンへ到着、定宿にチェックインした。

■チェントーンでの旧正月(2)

 翌日、チェントーン近郊の村の広場でラフ族の祭りがあるというので、行ってみることにした。これは近郊のラフ族が一斉に集まるもので、規模としてもかなり大きく来賓が数多く招待されていた。来賓が揃うと入場が始まり、その後はグループごとに踊りが披露された。それにしても、これだけのラフ族が民族衣装を身につけている姿を見るのは初めてだ。昨年訪れたラフ族のお祭りは村単独での開催だったので、これほどの数は集まっていなかった。ラフ族の踊りはステップが数種類あり、力強さを感じさせるものが多い。田植えから稲の収穫までを表現した踊りなどは、誰が見てもわかるようなものだ。

 2日目、近郊の村へのトレッキングの帰り道、あるラフ族の村で踊りが行われていた。と言っても民族衣装などは身につけておらず、ただひたすら自分達で打楽器を鳴らしながら踊っているだけだったが、ほとんど休みなく続けている。楽器を演奏するのは子供達が多く、ひたすら音を鳴らし続ける。この村では、踊りよりも音楽を聞いているほうがはるかにおもしろい。子供達は、曲を自分達なりにアレンジして演奏しているようだった。しばらく見続けていると、村長が話しかけてきた。残念ながらタイ語を話すことはできないのでガイドを介しての会話だったが、「せっかく来たのだから。」と言って、餅を持って来てくれた。ラフ族の慣習で、正月は餅をついているのだという。ありがたくいただき、ゲストハウスに戻って焼いてもらうことにした。こちらも、お礼にと手持ちの飴を渡したが、すぐにそれは子供達を中心に村人たちに配られた。村の生活は決して豊かとは言えないものの、食べることには困っていないように見受けられた。しかし、自給自足的な部分が多く、飴などはなかなか口にすることができないのだろう。どこでも喜んでくれるし、いざという時は自分用の非常食にもなるので、山に行く時はできるだけ数多く持っていくことにしている。

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 3日目、リス族の村に行くことになった。ガイドが懇意にしている村で、今日は祭りが行われるということだ。そこに行く途中、ピックアップトラックに乗っているラフ族の集団に遭遇した。いくつかの村を回って踊りを披露しているらしいその集団の後をつけ、ある村でそれを見せてもらった。こじんまりとしたものだが、まったく我々旅行者を意識せず、あくまでも自分達の儀式、お祭りとして踊っている姿は素朴ながらも神聖で美しいものであった。

 チェントーンから車で1時間弱、途中の川が車が渡れないほど増水していたので、車を置いて約30分ほどの軽トレッキングをすることになった。「悪いけど、車はここに置いて歩いて行ってくれ。道は平坦だし30分で着くから。」ガイドのひとりがそう言うので車を降りて歩くことにした。確かに、ガイドの言う通り平坦な道を30分も歩くと、聞き覚えのある音楽が聞こえてきた。昨年行ったリス族の村で奏でられていたのと同じリズムの音楽である。この村は、正直言って昨年行ったタイ領の村と比べると、かなり貧相である。当然のことながら、電気も来ていない。身につけている衣装もそれほど華美なものではない上に、中途半端な衣装の人も多い。衣装をすべて揃えきれなかったのだろうか……。やはり、タイと比べると経済格差があることは否めないだろう。それでも、ガイドたちがかなり大量の食材(野菜や肉など)を差し入れに持って行ったせいか、振舞われた食事は豪勢だった。ガイドにはお金を払っているものの、村人達には直接お金を渡していないのに、食事を振舞われるのはいつもながらうれしいことである。昨年リス族の村で見た踊りは、同じリズムで同じステップをただひたすら続けているものだったのだが、この村ではラフ族と同様にいくつかのステップがあり、その順番も決まっているようだった。さらには歌いながら踊るパターンもあり、同じリス族でもかなり違っているのが興味深かった。

■チェントーンでの旧正月(3)

 4日目、丸1日チェントーンで行動できるのは今日が最後である。5日市がようやく開催されたので、行ってみた。初めてチェントーンに来た時から毎回この5日市には来ているのだが、年々民族衣装着用率は下がっている気がしてならない。また、写真撮影に関するトラブルも聞くようになり、撮影意欲もあまりわかない。それでも、前回写真を撮ったタイヤイの娘さんに再会し、その写真を渡すことができてホッとした。
 さて、どこに行こうか……。実は、ガイドも迷っていたようだ。普通にバイクで行けるような山岳民族の村は行き尽くしているらしい。後はある程度歩かねばならないところばかりのようなのだが、“この日本人は、歩くのが嫌いだからなあ……”と考えていたのだろうか。「じゃあ、***族の村に行く?“少し”歩くけど、まだ君が行ったことのない村だよ。」という誘いに乗って、まずはバイクで行けるところまで行くことにする。これまでの3日間は、ドリーム(または車)で行動していたのだが、この日はオフロードバイクが使えるということで、ガイドもこのコースを選んだのだろう。オフロードバイクは、2人乗りのドリームではまず登れそうもない急坂を登り続ける。きつい勾配の上に砂地の道で、何度かタイヤを取られたものの1時間ほどでバイクは目的地に到着した。

 到着した場所は、この一帯では最も標高の高いところにあり、見晴らしもよかった。道路を工事している最中で、多くの労働者が働いている。そんな工事現場の労働者用に食事を作っている山岳民族の女性がいた。そしてしばらくすると、その娘というのが下の方から荷物を持って登って来た。どうやら、毎日1往復しているらしい。そんな彼女は、民族衣装を身につけている。撮影しながらガイドを通じて話を聞くと15歳ということだったが、体つきは小学生と言っても過言でないほど小柄だった。だが、持って来た荷物を見せてもらうと、15kgから20kgはありそうな、非常に重たいものだった。“こんな小柄な体で、よく持って来られるねえ……”などと感心していたのだが、彼女にとっては日常らしく、どうってことない、という感じだった。しばらく撮影や会話をしていると、「食事の用意ができたから食べていけ。」と誘われる。食事といっても、ナムプリック(日本で言うふりかけのようなものだった)と野菜が少し入ったスープ、それにご飯と質素なものだ。しかし、ナムプリックの辛さが食欲を増進し、けっこうな量を食べてしまったような気がする。いつもながら申し訳なく思う。

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 食事の後、「ここから1時間ほど歩くと目的の村に着くけど、行く?道も平坦だよ。」とガイドに聞かれた。工事現場にいた子供達3人も、一緒に村に戻るという。“この子供達と一緒であれば、キツイ山歩きも多少は楽しくなるんじゃないかな。それに1時間なら、ここ2日ほど歩いていることだし何とかなるだろう。”と安易な気持ちでこの誘いに乗ってしまった。しかし、歩き始めて5分もしないうちに、そのことを後悔していた。この道は、とても平坦とは言い難いものだった。出発地点からいきなり崖を降りるような急勾配、さらにダラダラとした下りが続く。“おいおい、この道を帰りは登るんだろう?勘弁してくれよ……”と思いながら、必死になって子供達の後をついていく。15分ほどすると、子供達が歩く順番を変えてきた。「この人、歩くの遅い……。」子供たちの中でリーダー格の娘がそんなことを話している、とガイドが教えてくれた。45分ほど経過した頃、少し平らで広いスペースのある場所で休憩を取る。ここから彼らの村が見えるというので教えてもらったのだが、とてもあそこまであと15分で着くとは思えないような、遥か彼方に見えた。ここまでは下り中心であったが、ここからもさらに下り、そして一気に登り詰める、というのがルートになるようだ。“これのどこが平坦な道なんだ!!”と怒りながら、ここまで来たら引き返せないという意地だけで、彼らの後をついていく。川を渡り、登りが始まった。途中までは子供達と同じ道を歩くことができたのだが、かなり急な勾配のあるところで、男の子が別の道を行こうと提案してくれた。ちょっと遠回りになるが、だいぶ勾配が楽になるらしい。女の子2人は、いつも通りの道を先に行き待っていてくれるという。この女の子2人は長靴を履いており、さらにリーダー格の娘は荷物を背負っている。それにもかかわらず、この道のりをあっさりとこなしているのだから、やはり山の民は強いなあと感心し、そして自分自身を恥ずかしく思いながら迂回路を登っていく。迂回路はだいぶ傾斜が緩やかになっており、おかげで何とかペースを取り戻すことができた。

 再び合流すると、「ここまで来れば、10分で到着するよ。」とガイドが教えてくれた。その言葉のおかげで、ようやく景色を見る余裕が出てきた。静かな山の中で、川のせせらぎも聞こえる。しかし人通りはまったくなく、この子供達だけでほぼ毎日歩くのは怖くないのだろうか、とふと考えてしまった。合流してからは道も緩やかになり、村の直下で若干の急斜面があったものの、無事に目的の村に到着することができた。所要時間90分……。休憩時間があったとはいえ、予定の1.5倍の時間がかかってしまった。これまでは、ガイドの話す時間通りに歩くことができていたのだが、さすがに起伏が激しいと所要時間に狂いも生じる。このコース、村に着いてから手元にある高度計で確認すると、300m下って200m登ったということになっている。帰り道のほうが登りが多く、さらに疲れもあることから2時間は見ておく必要があるだろう。となると、村にいる時間は限られてくる。ちょっと残念だが、村で過ごす時間は短くせざるを得ない。

■チェントーンでの旧正月(4)

 この村は10戸ほどの家があるだけで、それほど大きいとは言えない。昼間ということもあり、大人の多くは出かけており、いるのは子供と女性が中心だ。それでも、この日は大人の男性が何人か残っていた。そのうちの一人は私を別の村で見たことがあると言う。何度か行っている同じ民族の村で見た記憶がある、というのだ。「確か、薬を持って来てくれた人だよね?」とガイドにたずねたそうだ。やはり同じ民族、村は離れていても交流はあるらしい。彼らは、私の持つカメラを興味深くながめていた。ファインダーからのぞかせてみると、おもしろがっている。そんな彼らに写真を撮らせようと思い、ガイドに説明してコンパクトカメラを渡して、フィルムがなくなるまで好きなように撮るように、と伝えた。彼らに撮らせたそのフィルムを現像し、それを次回に持って行こうと思う。一体いつになるのかわからないが……。
 この村には、それほど観光客は来ないそうだ。やはり、ある程度歩かなければたどり着けない村には、観光客も足を運ばないのだろう。最近行く村は旅行者慣れしているところが多かったのだが、この村は決してそんなことはなかった。まだまだ外国人と接するのは恥ずかしい、そんな雰囲気が感じられる。
 カメラとボディランゲージでコミュニケーションを取っていたが、残念ながら時間となった。最後に村人の集合写真を撮って、村に別れを告げた。

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 来る時は、苦しいながらも子供達との楽しいひとときがあったのだが、帰り道はガイドとふたりきりである。しかも、明らかにこちらの方が行きよりもきついルートだ。憂鬱な気分で村を後にすると、先ほどの男の子が追いかけてきた。どうやら、また一緒に戻ってくれるようだ。
 最初の下りは思ったよりもスムーズに通り過ぎたが、川を越してからの急坂は厳しいものがあった。結局途中でダウンし、少し長めの休憩を取ることにした。時間が迫り、少しあせってきたのだが、ガイドは「時間は気にしなくていい。大丈夫だよ。」と励ましてくれる。息が切れているので、呼吸が整わない限りしばらく続く坂道は登ることはできないだろう。
 ようやく呼吸が落ち着き、出発する気になった。そうすると調子のいいもので、意外にスムーズに登れるような気がする。もうそろそろゴールというところで、僧の集団と出会った。その中のひとりに豆乳をいただくことができ、力が湧いてきた。ゴール直前の急坂も一気に登ることができたのだが、何と最後の一歩でとうとう足がつってしまった。思わず発した悲鳴は、周囲の注目を浴びることとなった。ガイドに助けられながら足を伸ばし、さらに休憩をとることにした。同行してくれた男の子にジュースを与えようと思い、ガイドを通じてこちらの意思を伝えると、“ジュースはいらない”という。ジュースよりも乾電池の方がいいというのだ。「ジュースは飲めばすぐになくなるけど、乾電池は長く使えるからね。」とガイドは言う。電気のない男の子の村では、懐中電灯は貴重品なのだ。その貴重な懐中電灯の電池がちょうど切れているので、何かくれるのであれば乾電池の方がよっぽどほしいのだ、という。たかだか1時間ちょっとの山登りでバテバテになってしまったが、この子供達と一緒でなければ途中で引き返したかもしれない。どれだけ彼らには救われただろう。そんな気持ちもあって、お礼にということで乾電池を買うことにした。

 つった足の状態はイマイチであったが、日が陰ってきておりかなり冷え込んできたので、早く帰る必要がある。男の子や工事現場の労働者に見送られながら道を急いだが、途中のある村で休憩しようとすると、再び足がつってしまった。悲鳴を聞いてやって来た村人が親切にも薬を持ってきてくれて、これを塗れという。それにしても、こうした旅人に対する優しさというのはありがたいものだ。

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 この国は、軍事政権ということでイメージが悪いかもしれないが、そこに住む人々には、まだまだ優しさが残っている。そんな彼らの気持ちに感謝しているうちに、チェントーンに来る途中のタクシーの中で思った後悔は消え去っていた。

■チェンマイを去る(1)

 チェンマイを離れることにした。

 実はこれを書いているのは、離れてから長い月日が経ってからだ。ずっとこのことを書けなかったのは、離れる原因を自分の中で整理できなかったことが大きな理由だろう。まだ整理できたとは思えないが、とりあえず文章にして残しておきたいと思う。

 チェンマイに住み始めた当初、私はある目標を立てた。チェンマイを離れる7〜8ヶ月くらい前まで、その目標に向かって行動していた。その目標というものをここで述べる気にはなれないが、この頃の私はタイ人社会にどっぷりと浸かった生活、とまでは行かなくとも、日本語環境はほとんどなく、タイ語のシャワーをひたすら浴び続けていた。そのタイ語のレベルは当時の私の能力をはるかに超えるレベルであり、しばらくして私は心の安定を失った。心の安定を失った直接の理由はタイ語能力の欠如であろうが、間接的要因もいくつかあったと思う。

■チェンマイを去る(2)

 チェンマイでの自分の生活というものは、ある意味不安定なものだった。
 これは自分の勝手な考えであるが、チェンマイでの自分の中には、“日本人社会”と“タイ人社会”が存在していたように思う。在留邦人の方の多くは、どちらかに完全に溶け込んでいるか、バランスよく両者と付き合っているように見えた。しかし自分の場合、少なくとも日本人社会に溶け込んでいるとは言えなかった。在留邦人で気の許せる間柄にあった人は数えるほどしかいなかった(相手がどう思っていたかどうかは別にして)。もちろん、会えば挨拶を交わす程度の関係になればもう少し増えるのだが、彼らとはこちらから積極的に連絡を取る関係ではなかった。ではタイ人社会に溶け込んでいたのか、というとそんなこともない。最低限の用事を済ませるために付き合っていたタイ人は10人以上いたかもしれない(実際、携帯電話に登録されていたタイ人は10人以上おり、チェンマイ在住の日本人よりはるかに多かった)が、彼らとも親しい間柄とは言えなかった。私の概念で言うと“友人”ではなく“知人”に過ぎない人ばかりだった。つまり、友人と呼べる人物が日本人、タイ人を問わずほとんどいなかったためどちらの社会にも属せず、 またバランスよく付き合うというレベルにさえ至らずにチェンマイ生活を続けていたのだった。

■チェンマイを去る(3)

 心の安定を失ってからチェンマイを完全に離れるまでの7〜8ヶ月の間、その大半をチェンマイ以外で生活していた。半分くらいはタイ国内にいたのだが、その間、ほとんどタイ語を使わない生活をしていた。タイ人社会、というよりはタイ語社会に疲れ果てていた。だからこの間、タイ人とはほとんど接しなかったと思う。最低限必要なタイ語だけを使って生活していた。買い物に行っても指さしで済ませたり、とにかくタイ語を話したくなかった。バンコクや地方都市に住む日本人の友人を訪ね歩いたり、日本から友人がやって来た時には一緒に旅行をしたり、日本にも数回戻ったりと、タイ語から離れた生活をしながらなんとか気分転換を図ろうとしていた。そして、チェンマイでの生活を終わらせる決心をすることができ、ようやくチェンマイを離れることができたのだった。

■チェンマイを去る(4)

 なぜ、心の安定を失ったのか?
 人間、誰しも壁にぶつかったり挫折することはあると思うし、これを恥じる気持ちはない。しかし、あそこまで落ち込むことになったのはなぜだろうか?挫折してから、何かできなかったのだろうか?

 居場所がなかった……。この一言に尽きる気がする。自分の性格は内向的だと思っている。この年になって性格を変えるのは難しい。学生時代から友人は少なかったが、少ない友人との関係は濃厚なものだった。タイに来て以来、連絡の途絶えてしまった人もいるが、街でばったり会えばまた以前の学生時代と同様の付き合いを始められると思っている。人間関係もそうであるが、趣味なども広く浅くということができず、狭く深くになってしまうのは自分の性格だと思う。
 挫折しそうになった時、気分転換でもできればもう少し何とかなったかもしれない。友人と話をすることもそうだ。もちろん、前述の友人(ほとんどが日本人だが)たちは、色々と手を差し伸べてくれた。にも関わらず、挫折してしまったのは自分の力が至らなかったからなのは間違いない。それは重々承知しているが、それでもあえて言わせてもらうなら、チェンマイには居場所がなかった。いや、作ることができなかったのだ。

■チェンマイを去る(5)

 ここ数年、チェンマイにはロングステイをする日本人が増えている。一人でやってくる方もいれば、夫婦で住まれている方もいる。長く住んでいる方は、皆それなりにコミュニティを築いて生活されていると思う。タイ人であれ日本人であれ、“友人”と呼ぶことができる人がいないと長く住むことは難しいであろう。私の場合、友人を作ることができなかったのがチェンマイに長く住めなかった理由だと思っている。もし、友人を作るのであれば、できれば同世代、そして似たような環境で暮らしている人が望ましい。残念ながら、チェンマイに住む事情はそれぞれ異なっているので、しばらく付き合っていると違和感が生じてくることもあると思う。その場合、長く関係を維持することは難しいでろう。
 私は、短いながらもタイ人社会にドップリと浸かった経験があるが、それ自体は苦痛ではなかった。文化の違いから、タイ人と付き合ってはいられない、と思う人もいるだろう。一方で、タイ人との付き合いはチェンマイに住む日本人と付き合うより楽だと感じる人もいるようだ。それは人それぞれで、どちらが正しいというものではないと思う。しかし、誰とも付き合わずに長期滞在を試みるのは相当な困難を伴うだろうし、何のためのチェンマイロングステイなのか理解に苦しむ。どんな形であれ、自分の居場所を作ることが長期滞在の秘訣だと、今回の経験で痛感した。

 語学力は必須ではない。身近に、タイ語はおろか英語も満足に話せないのになぜか外国人と仲よくなるのが上手な人がいる。コミュニケーション能力に長けているというのだろうか……。語学力よりも、その土地とそこにすむ人になじめる適応性が肝心だろう。元在住者として言わせていただくならば、チェンマイにロングステイをするのであれば、国籍を問わず友人を作り、自分の居場所を確保することが成功の秘訣だと思う。

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 最後に、チェンマイ在住中にお世話になったタイ人、そしてまだチェンマイにいるのか、そしてこれを見ているのかどうかわかりませんが、日本人……のすべての方にお礼とおわびをしたいと思います。携帯電話をなくしてしまい、またメールアドレスなども聞いていなかったので、ほとんどの方とはもう連絡も取れなくなってしまいました。この場を借りて、ありがとう、そして申し訳なかったです。
 また、このコラムを読んでくださった方にもお礼を申し上げます。ありがとうございました。





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