あなたの知らないチェンマイ
チェンマイは“北方のバラ”“タイ第2の観光地”などと言われ訪れる観光客も大変多いが、日本語のガイドブックで紹介されているスポットの数は意外に少なく、リピーターとなって本格的にこの街を探索するには正直って物足りないものがある(と言うか、すぐに行くところがなくなる(笑))。
そこで、このコーナーでは、こうしたガイドブックには載っていないが、行ったらおもしろそうな穴場や現地の人達の観光スポット、ヒマつぶしのできる場所などを紹介する。初チェンマイの人やあまり時間が取れない人にとってはあんまり役に立たない情報だとは思うが、「へ〜、こんなところもチェンマイにはあるんだ」と思っていただければ、幸甚だ。また、「他の人は知らないと思うけど、私はこんなところがお気に入り」というのがあれば、ぜひレポートをお寄せください。
■ヴィアン・ターガーン(12世紀に建設された都市の遺跡)
行き方……チェンマイから南におよそ30キロのサンパトーン郡にある。国道108号線を南に進み、サンパトーンの街を過ぎて10キロほど行くと、トゥンシアオの街に着く。街の中心部にある信号を左折(信号手前に英語の看板あり)し、さらに2キロほど進むと大きなチェディ(ワット・トンゴーク)が見えてくる。そのまままっすぐ1キロほど直進した右手が遺跡の中心部で、インフォメーションセンターと資料館がある。
チェンマイのはるか南にある、ハリプンチャイ王国(ラムプーン)の黄金時代に栄えた街の遺跡。下に紹介しているヴィアン・クムカームよりも全体としての規模は小さいが、歴史ははるかにこちらの方が古い。
遺跡は、下記の説明の通り大きく6つのグループに分けられており、多くの遺構にはタイ語と英語の説明看板が設置されているほか、チェディなどが密集した中心部には資料館とインフォメーションセンター(遺跡めぐりはここから始めるのがよい)が作られており、出土した遺物が展示されていたり、遺跡の来歴などについて詳細な説明がなされていて、ある程度観光地としての機能を有しているが、遺跡を見て回っていても、外国人はもちろんタイ人の旅行者に会うこともまったくなく、自分は逆に村人から“こんなところに外人が来た”というカンジで、もの珍しそうに見つめられてしまった。日本で市販されているガイドブックでここを紹介しているものはおそらく皆無なので、そういった意味ではヴィアン・クムカームと同様に、チェンマイ観光の穴場的スポットのひとつと言うことができるかもしれない。
一応、観光地としての体裁は整えてられてはいるものの、遺跡の保存状態はヴィアン・クムカーム同様にそれほどよいとは言えず、ほとんどが野ざらしで遺構の上などにも乗って歩くことができるが、そのようなことをする場合は遺跡を壊したりすることのないように、細心の注意を払いたいものである。
遺跡は、3方をお堀に囲まれた約1キロ四方のエリアに点在しており(その外にもいくつか残っている)、すべてを歩いて回ることは不可能。中心部を貫くメインストリート沿いにある遺跡を除けば、いかにも北タイの田舎というカンジの村の中の細い道を進んで向かうことになるが、自動車だと進むことが困難なところがあったり駐車スペースが見つけにくい遺跡もあり、あまり都合がいい交通手段とは言えない。トゥンシアオの街までは、国道108号線をチョムトーンやホートに向かうソンテオやバスが多数通っているが、そこから遺跡までの交通の便は決していいとは言えない(たぶん、バイクタクシーなどを利用することになるだろう)ので、チェンマイからバイクを自分で運転していくのが一番いいと思う。ラムプーンの南西に位置しているので、ふたつを組み合わせて1日観光とするのもアイディアであろう。
≪ヴィアン・ターガーンの背景≫
ポンサヴァダーン、ヨーノック年代記など歴史書の記録によれば、ヴィアン・ターガーンの歴史に関連するチェンマイの原初的な宗教と土着の神話は、仏教の故事として残されている。それらの歴史書の記録では、仏陀がヴィアン・ターガーンを訪れたとされているが、考古学的に見ると、ヴィアン・ターガーンの街は12世紀のアティタヤラージャ王の治世に建設されたと考えられる。この時代、ハリプンチャイ王国の宗教、芸術および文化は隆盛を極めていた。ヴィアン・ターガーンの都市は、ラムプーンの町を守ると同時に食料を供給する役目を担い、その重要性はラーンナー王朝のマンラーイ王の時代(在位1261年〜1311年)まで続いた。
チェンマイの街が建設される以前、一帯はヴィアン・プンナターガーンとして土着の神話には記録されている。マンラーイ王は、ヴィアン・ブンナターガーンを重要な街として位置づけ、そこにボーの木(インド菩提樹)を植えた。チェンマイ土着の神話は、4人のプラー・マーハー・テラーが4本のボーの木をランカー(現在のスリランカ)から持ち帰ったと記している。後にマンラーイ王がそれらの木を受け取り、1本はファーンの街のトゥン・ヤンで、もう1本をチェンマイのルオ・ナーンで、さらにもう1本をヴィアン・プンナターガーンで育てた。そして、残りの1本は、彼の母親がヴィアン・クムカームにあるワット・カーントームに植えて育てたとされている。
ヴィアン・ターガーンは、後にチェンマイのティローカラート王(在位1441〜1487年)の支配下に入った。この時代、ティローカラージャ王はギオの街を攻撃し、捕虜をヴィアン・プンナーターガーンに住まわせた。北タイ地方の方言で、“プンナー”は1,000スクエアの広さを持つ水田地区という意味である。
後の1558年、ホンサワディーのブレーンノーン王がチェンマイを支配した際、ヴィアン・ターガーンもビルマ人に占領された。その後、チェンマイとヴィアン・ターガーンは、1796年にカーヴィーラ王がビルマを追い出し、この地域にタイ・ユアン族を移住させるまで、1775年から1798年の間は荒廃した。タイ・ヨン族は、ヴィアン・ターガーン一帯に今日まで住み続けている。
しかしながら、ヴィアン・ターガーンに住む人々は、ターガーンという言葉は“ターカー”という単語から来ている、と言う。村の言い伝えによれば、ある時白いカラスが村に飛んで来たが、村に不幸をもたらすとしてすべての村人によって追い出された。その出来事から、人々は自分たちの村をターカー(北タイ地方の言葉でターカーはカラスのことを指す)と呼ぶようになったらしい。さらにその後、1907年には、ワット・ターガーンの僧院長が、村の名前をバーン・ターカーからバーン・ターガーンに変更した。
ヴィアン・ターガーンについて書かれた文献は、ハリプンチャイ王朝からラーンナー王朝の時代まで、人々がこのエリアに住み続けたと主張している。北タイ地方には、考古学的な遺跡はそれほど多く残っていないが、このエリアでは仏教の碑文や土製の仏像、ブッダとボディーサッタの銅像などのハリプンチャイ文化の下で作られた遺物がいくつも発掘されており、さらに多くのハリプンチャイとラーンナーの文化の下で作られた遺物がヴィアン・ターガーンの街の内外に残されていると考えられる。
≪ヴィアン・ターガーンとハリプンチャイ王国との関係≫
ハリプンチャイ王国は、チェンマイおよびラムプーン県のピン川上流の平原、ラムパーン県のワン川沿いの平原とカオカー郡にある数多くの街から成り立っていた。そして、ラムプーン(ハリプンチャイ)が王国の中心であった。チャーマテーヴィー(ハリプンチャイ王国の最初の支配者と言われるモン人の女王(*注1))の神話には、ワーステープという隠者が767年から768年にハリプンチャイを建設したと書かれている。ハリプンチャイを建設した後、彼は統治者としてラウォー(現在のロッブリー)国の王女であったチャーマテーヴィーを迎えた。ハリプンチャイの街が平定した後、支配者はその領土を拡大させ、その影響はワン川平原の広い範囲に及んだ。ケーラーン(現在のラムパーン)の街は、この時代に確立された。ハリプンチャイ時代のピン川平原に見られる古代都市は、ノーントーン地区(サンパトーンの東)のヴィアン・マーノー、チェンマイ県のハーンドーン、ソーンケーオ村のヴィアン・トア、チェンマイ県のチョムトーン、クラーン地区のヴィアン・ターガーン、チェンマイ県のサンパトーンである。
北タイに伝わる神話によれば、仏陀がハリプンチャイとヴィアン・ターガーンを訪れ、ハリプンチャイは自分の遺品が安置された偉大な街になるだろうと予言した、とされている。それに加え、神話にはアーティトアヤラージャ王がワット・プラタート・ハリプンチャイの中に仏陀の遺品を納めたストゥーパ(仏塔)を建設したが、その工事中に白いカラスが彼の頭上を飛び回り、彼が兵士にそのカラスを捕まえるよう命令したが、ヴィアン・ターガーンヘ飛び去っていった、と記されている。
ハリプンチャイの街とヴィアン・ターガーンは、お互いに関係しあっていたということができる。アーティットアヤラージャ王は、1043年に即位した。したがって、ヴィアン・ターガーンはハリプンチャイの街が建設されたのと同時代かそれ以前にできたのかもしれない。
≪ヴィアン・ターガーンとチェンマイとの関係≫
ヴィアン・ターガーンとハリプンチャイの繁栄と没落は、同時代にあたる。マンラーイ王がハリプンチャイを征服した後、ヴィアン・ターガーンはチェンマイを防衛する街となった。ティローカラート王(在位1441〜1487年)の治世、彼はギオの街を攻撃し、ヴィアン・プンナタカーンに住まわせるために、多くのギオの住民を捕虜として連れて来た。
ヴィアン・ターガーンはランナー王国の街として、そしてチェンマイのプンナー(1,000スクエアの広さを持つ水田地区という意味)としての重要性を長い間保ち続けた。1558年、ホンサヴァディー(ビルマの都市)のブレンノーン王がチェンマイに軍隊を送り、その時以来ヴィアン・ターガーンはビルマの支配下に置かれた。
1728年、ラーンサーン王国(14世紀、ラオスのルアンプラバーンを首都として成立した王朝)のオーンノック王が大きな力を持ち、ビルマと戦った。その結果、ラーンナー王国の多くの街は1775年から1798年の間荒廃した。その後、1796年にカーヴィラ王がバンコクからの軍隊と協力してチェンマイを襲撃し、ラムプーンとヴィアン・ターガーンを復活させた。これらの街には、タイヨン族が居住した。
≪各遺跡の紹介≫
ヴィアン・ターガーンの遺跡は、ロケーションによって、6つの遺跡群とそれらからやや離れたところにある独立した寺院遺跡、およびお堀と城壁によって構成されている。
[第1遺跡群]
このグループは、ヴィアン・ターガーンの中心に位置しており、22,400平方メールの広大な敷地に遺跡が点在しているほか、資料館もここに建てられている。ヴィアン・クムカームにはこのような広くて開けたスペースに遺跡が数多く固まったところがなく、スコータイほどではないものの、壮観な印象を受ける。
寺院全体は東側にメインの門が作られた壁に囲われており、チェディ(仏塔)、ヴィハーン(本堂)、ウボソット(布薩堂)、そしてその門と壁の基礎部分が残っている。チェディはヴィハーンの後方に位置しているが、基壇の8角形のスタイルはラムプーンにあるワット・チャマテヴィー(=ハリプンチャイ様式)の影響を、丸型の鐘はラーンナー様式の影響を受けていることから、14世紀から17世紀の両王国の時代に建立されたと考えられる。
このグループのエリアの遺跡からは、金・銀・銅製の仏像と土製のブッダに関する碑文が発見されている。しかし、この地域での最も重要な遺物は、ユアン王朝時代のブルー・アンド・ホワイト(青磁)の壺だ。
この遺跡は、タイ国芸術局によって登録され、境界が決定された。この登録は、1979年9月18日に発行された政府官報の第96巻、160章の中で布告されており、1988年にタイ国芸術局第4部によって発掘・修復が行われた。
[第2遺跡群]
遺跡中心部から見て北西側に位置する、ワット・プラ・ウボソットとワット・パーパオを中心としたグループ。このエリアの寺院は、14世紀から17世紀のラーンナー王国の時代に建設されたと考えられ、タイ国芸術局によって1988年に発掘、修復が行われた。
■ワット・ウボソット
お堀の内側にある遺跡。この遺跡で現存しているモニュメントは、ラーンナー様式の四角形の基壇を持つチェディと、その前に建てられたヴィハーン、それに屋根のない楼門である。この寺院のヴィハーンは東に面しており、遺構は境界に作られた壁によって囲まれている。楼門は遺跡の東側に残されている。チェディはヴィハーンの裏側に位置し、基壇から鐘形の頂上部までほぼすべてが残っている。
寺院がこのような名前で呼ばれるのは、寺院の中に打ち捨てられたウボソット(布薩堂)があったからであるが、後にそのウボソットは住民によって取り壊され、新しいものに建て替えられた(おそらく、チェディーの脇に建っている新しいウボソットがそれであろう)。
16世紀から17世紀のラーンナー王朝時代に建てられたと考えられており、タイ国芸術局によって1988年に発掘、修復が行われた。
■ワット・パーパオ
お堀と城壁に接するようにしてその外側に建てられた寺院。写真の通り荒地の中に四角形の大きな基壇とチェディの下部だけが残されている。この遺構を見る限りでは、それほど大きな寺院ではなかったと思われる。
[第3遺跡群]
第1遺跡群の南に隣接した、ワット・トーンポーを中心としたグループである。「ヴィアン・ターガーンの背景」で言及している、ランカー(スリランカ)から来たボー(インド菩提樹)の木は、マンラーイ王によってこの寺院の敷地内に植えられたと考えられている。このグループで残っている遺構は、チェディ、ヴィハーン、ウボソットと遺骨を納めるための四角い建物である。チェディの南側にあるヴィハーンは、東にあるメインの門の方を向いており、すべての遺構は、この門から伸びる境界線に作られた壁によって囲まれている。これらの遺構は、14世紀から17世紀の間のラーンナー王朝の時代に建設されたと考えられ、タイ国芸術局によって1988年に発掘、修復が行われている。
[第4遺跡群]
遺跡の中心部からやや東側に位置している。ワット・フアカオーンが、このグループの中心と位置づけられているが、それ以外に遺跡はなく、グループと呼ぶには少々無理があるような気がする。
ワット・フアカオーンには、南を向いたヴィハーンの後方にチェディが残っており、境界に作られた壁によって囲まれている。この寺院は16世紀から17世紀のラーンナー王朝の時代に造られたと考えれており、1988年にタイ国芸術局によって発掘、修復が行われた。
[第5遺跡群]
ワット・プラチャオカムを中心とする、中心部から北東方面に位置する遺跡群。ここにたどり着くには、村落内の少し複雑に入り組んだ道を進んでいかなければならない。遺跡群そのものは、村はずれの住居がとぎれた先にポツンと取り残されたようにたたずんでいる。
■ワット・プラチャオカム
荒地に大きなチェディの基壇部分のみが残っている遺跡。説明書きを見ると、チェディの奥にヴィハーンも残っているようなのだが、自分が行った時には草が生い茂っており、近づくことはできなかった。
寺院が「プラチャオカム」と名づけられたのは、このエリアから焼けた銅の仏像が見つかったからで、「カム」は北タイの方言で“焼けた”という意味である。
寺院のモニュメントは東を向いており、チェディとヴィハーンは同じ基壇の上に建てられているという。寺院は14世紀から16世紀のラーンナー王朝時代に建立されたと考えれ、1989年にタイ国芸術局によって発掘、修復が行われた。
[第6遺跡群]
お堀の外側、遺跡中心部からほぼ真西に位置しており、トゥンシアオの街からヴィアン・ターガーンに向かって進んで来ると、一番最初に左手に見えてくるのがこの遺跡群だ。
ワット・トンゴークがこのグループの中心を形成している。
■ワット・トンゴーク
チェディの上部は典型的なラーンナー様式である釣鐘型をしているが、およそ50年前に基壇がビルマ様式に作り変えられて現在のような大きさになった。しかしながら、このチェディそのものの建設はまだ完了していない、とされている。ワット・トンゴークのこのチェディは、正面が東を向いたヴィハーンの裏側に位置している。チェディの北には、まだ発掘されていないヴィハーンの小さな丘と小規模な建物の遺跡があるらしいのだが、自分が訪れた時にはこのあたりは草木が生い茂り、存在を確認することすらできなかった。
寺院は、ラーンナー王朝時代の15世紀から17世紀の間に建立されたと考えられており、1989年にタイ国芸術局によって発掘、修復が行われた。
[そのほかの遺跡&遺構]
■ワット・クーマイデーン
ワット・トンゴークの前から南東に伸びる通りをどこまでも進んだ、ほかの遺跡からはかなり離れたところ(説明書きにはヴィアン・ターガーンの中心部から300メートル南と記されているが、実際にはもっと離れていると思われる)にポツンと残された寺院の跡。全体の半分ほどの高さまで残ったチェディとヴィハーンの跡が残り、チェディの前には崩れかけた3体の仏像が無造作に置かれている。この寺院は、地元の人々からクーマイデーンと呼ばれているが、それはここにタイでは“マイデーン”として知られる赤い(デーン)木(マイ)があったからである。しかしながら、寺院の歴史に関する情報はまったく記録が残っていない。
遺跡には、チェディ、ヴィハーン、境界を形成している壁が同じ基壇の上に乗った状態で残されている。チェディとヴィハーンは2度建設されている(前者は、他の遺跡のチェディとは色が異なっており、もしかしたらかなり新しい時代に作られたものかもしれない)。崩壊しているチェディの内部には、花托模様の3つの輪がつけられた高い四角形の2重にさねはぎ継ぎされたもうひとつの小さなチェディがあるが、これは遺物を収めるためのものだと推測される。このもうひとつのチェディは16世紀から17世紀の間に建てられたと考えられている。チェディの基壇から伸びたヴィハーンの基壇の上には、現在見ることのできる新しい基壇が造られている。ヴィハーンの南側にある四角形の基壇は、かつてパビリオンか僧侶の住居として使われた建物の跡である。この寺院そのものは、14世紀から17世紀の間に建立されたと考えられる。
■ワット・ノーイ
第1遺跡群と第3遺跡群の南、ヴィアン・ターガーンを囲む城壁と運河の近くに位置する遺跡。ほかの寺院に比べると規模が小さいことから、タイ語で“小さい”という意味を表わすノーイという名前がこの寺院につけられた。この寺院の歴史に関する情報は、上記ワット・クーマイデーンと同様まったく記録が残っていない。
東向きに建てられたメインのヴィハーンの裏手にチェディーの遺跡が残り、さらに北側にはもうひとつの小さなヴィハーンの跡がある。この2つのヴィハーンは、ともに3回建設されている。最初は大きなレンガで造られ、その後の2回は規模の拡張を目的とした建て替え工事である。チェディはずっと昔に崩壊し、宝物蔵の遺跡と合わせて四角形の基壇のみが残っている。この寺院は14世紀はじめから17世紀の間に建てられたと考えられている。
■ワット・パーパイルアック
街の南西、城壁とお堀に接するようにしてその外側にある寺院の遺跡群で、第1遺跡群と第3遺跡群に残された固まった寺院跡を除けば、ヴィアン・ターガーンの中で最も大きな遺構である。タイ語で“パー”は森を、“パイルアック”はシャム竹(日本の竹と異なり中が詰まっている(*注2))を意味しており、この寺院群の名前の由来は、このエリア一帯にたくさんの竹が生えていたことによる。しかしながら、この寺院群の歴史に関する情報はまったく記録が残っていない。
寺院群は、東に向けて造られた壁に周辺を囲まれている。この壁は幅56.35m、長さ81.80mの大きさを持つ。壁自体は平均して厚さ70cm、高さ50〜70cmである。発見された遺物から、いくつかの寺院は12世紀から14世紀にかけて建立されたと考えられるが、入口近くにある遺跡群の大部分については14世紀から17世紀に作られたと推測される。
この寺院には、大きく9つの遺構が残されている。
*NO.1……遺跡群の南側に位置しており、東を向いて建てられたヴィハーンとその裏にチェディが残っている。この2つは、もともとは別の基壇の上に建てられたが、後の拡張工事でひとつにつなげられた。そのため、現在は同じ基壇の上に乗っているように見える。ヴィハーンはラーンナー様式の開放的なホールになっており、チェディは蓮をかたどった四角い基壇の上に建てられ、大昔に倒壊している。
*NO.2……遺跡群のほぼ中央に位置している。ここには、ラーンナー様式のヴィハーンの基壇がふたつと、何だったのかまだ判明していない小さな建物の基壇が残されている。ふたつのヴィハーンは大きなレンガと漆喰で造られ、そのうちのひとつは南向きになっている。大きなヴィハーンの裏手に位置しているもうひとつの小さな付随的な建物は、大きなレンガだけで建てられている。
*NO.3……遺跡群の東側に位置している。南を向いたレンガの壁でできたヴィハーンが残されている。ヴィハーン内部にはさらにレンガの壁が造られており、それが部屋をふたつに分けている。
*NO.4……NO.1の遺跡とNO.2の遺跡の間にある。東を向いている、はっきりと間仕切りをしない間取りをした小さな四角形の建物の跡が残っている。
*NO.5……遺跡群の周囲を囲む壁の北東角に残された遺跡。中央にふたつの木の梁が平行に残った円形をフィーチャーした楕円形の基礎を持つ遺構が見つかっている。ここからは、大量の灰と炭が見つかり、また繰り返しここで何かを燃やした跡が残っていることから、遺体の火葬かいけにえを燃やすために使われていたのではないかと推測されている。
*NO.6……遺跡群の周囲を取り囲む壁の南に残されている小さな四角形の遺構を持つ遺跡である。この遺構はヴィハーンとして使われていたと考えられる。
*NO.7……遺跡群の周囲の壁の北側に位置している。この遺構はトイレとして造られたと考えられており、遺構に残された3つの壁は、現在も周囲の壁とつながっている。
*NO.8……遺跡群を囲む壁の東側に残された遺跡。発見されたさまざまな遺物は、ここが囲炉裏かキッチン、火葬場、あるいはハーブサウナとしてさえ使われていたことを物語っている。
*NO.9……NO.3の遺跡の北側に位置している。ここにはレンガと漆喰で造られた壁を持つ小さな四角形の建物が現存している。これは、パビリオンのひとつとして建造されたと考えられている。
■お堀と城壁
お堀と城壁は、南北に約700m、東西に約500の長方形をしており、現在のターガーンの村を取り囲むようにして残っている。お堀は約7mの幅があるが、東側は埋め立てられてしまったのか、城壁とともに残っていない。お堀を囲むように作られた道路から見ると水面はかなり低い位置にあり、雨季に水が入ったらかなりの深さになるであろう。お堀の周囲には人家などがあまりなく、どこも静かな雰囲気が漂っているが、村人が小さな船に乗って魚を取っているのがたまに見えたりもする。
これらのお堀と城壁はハリプンチャイ王国の時代に原形が作られ、ラーンナー王朝の時代に拡張工事が行われたと考えられる。
≪参考≫資料館の説明パネルおよび各遺跡の説明書き
≪注≫年号はすべて西暦。
(*注1)……同朋舎「タイの事典」 P218
(*注2)……タイ教育文化振興協会「タイ日・日タイ辞典」
この遺跡を訪れるための格安航空券を探すならこちらで!(PR)
■ヴィアン・クムカーム(チェンマイ建設前にあった王都の遺跡群)
行き方……市の南約4キロ。ピン川左岸を走るチェンマイ−ラムプーン通りを南に進み、空港から伸びるオームムアン通り(国道1141号線)との交差点を過ぎてさらに1キロほど行くと、右手に廃寺(ワット・クーカーウ)が見えてくる。廃寺の角(英語の看板あり)からスリーブンルアン通りを入って行った先の一帯が遺跡群になっている。
一般的に言って、チェンマイの歴史はタイ暦1839年(西暦1296年)にマンラーイ王が当地に都を建設したところから始まるとされており、ガイドブックなどにもそう書かれていることが多いが、実はその2年前に彼が別の都を築いていたことを知る人は少ないのではないだろうか。それが、ヴィアン・クムカームである。
遺跡は東西に2キロ、南北に1キロ四方ほどのエリアに点在していて、歩いて回るのたいへんなので、バイクや自転車を使う方がいいとだろう。それぞれのスポットは、後述の通り1984年以降に行われた発掘作業によってたいへんきれいに整備されており、主要な遺跡には説明書き(タイ語のみ)も設置されているが、その割にはタイ人を含めて観光客に出会うことはほとんどない。そういった意味では、今や観光地として整備されすぎてしまったスコータイやアユタヤーよりも、いにしえの古都の繁栄ぶりに思いをはせるには向いているのではないだろうか。周囲の風景も、ラムヤイ畑や田んぼの間に民家が点在している静かな郊外といったカンジで、遺跡から遺跡に移動する道中も含めて楽しめると思う。
遺跡群の中心地はワット・カーントムで、全体地図も設置されているので、まずはここを起点にして回るのがよい。市内から近いところで、その喧騒から逃れて北タイのノンビリした雰囲気を味わいたい、あるいはタイの遺跡や歴史的建造物に興味がある、という方には特にピッタリの場所だと思う。時間が許せば、ぜひチェンマイ観光のメニューに加えてほしい穴場的スポットのひとつだ。
==========
ヴィアン・クムカームへ行きました。旅行代理店の人にお願いして、往路だけ車でワット・タートゥイーカーンの近くまで連れて行ってもらい、後はこのサイトの地図を頼りに歩いてみました。この地図は、位置関係が正確で助かりました。
ヴィアン・クムカームは、日本の奈良・明日香村あたりの雰囲気があります。行ったのは、タートゥイーカーン、プーピア、タートゥカーウ、タートゥノーイ、チャーンカム、パンラウの6つでしたが、最近廃寺に関係したイベントがあったようで、提灯みたいなものが道筋に下がっていました。
道には英語表記の矢印案内が要所にあって、迷うことはありませんでした。観光客はほとんど見あたらず、昔のチェンマイをしのびながら快適な気候の中で歩きました。ただ、観光地としては未開発のようで、軽食を食べられるような店とかがないのが残念でした。トイレは、ワット・チャーンカムが新しいお寺といっしょになっていて、そこにタイ式のトイレがありました。
また、遺跡に向かうまでのチェンマイ−ラムプーン街道の巨木(木の種類は知りません)の並木道もすばらしいものです。これも、日光杉並木のように保存してほしいです。
【MASATOさんのレポート】
≪ヴィアン・クムカームの歴史的背景≫
1.ヴィアン・クムカーム建設前の状況
ヴィアン・クムカームが建設される前のこのエリアは、ハリプンチャイ王国(ラムプーン)の支配下にあった。
その当時は、ワット・カーントムを中心とした村が存在し、ハリブンチャイ文化の影響を受けていたことを示す明白な証拠が残っている。この村は、おそらくタイ暦17世紀(西暦11世紀)までさかのぼる歴史を持っており、それはモン族の文字によって書かれた年代記、石碑や僧院跡、および古代モン様式の工芸品によって立証される。年代記には、“ワット・カーントム周辺に住む人々がいちじくの木をあがめていて、後にその近くに寺院を建設した”と記されている。この年代記の記述は、考古学的な証拠をもとになされたとみられ、2527年(西暦1984年)に行われたワット・カーントムの発掘調査でも、寺院の下の地層から古い僧院の跡が見つかっている。さらに、これらの発掘調査では、ハリプンチャイ様式の素焼きの奉納板も発見されている。しかし、発見されたこれらの奉納板は、ワット・カーントムそのものと関係があるのかどうかは明白になっていない。また、この発掘では、ハリプンチャイ様式の縄の文様が彫られた素焼き土器のポットなども見つかっている。
こうしたハリプンチャイ芸術の遺物の発見は、ヴィアン・クムカームの集落がハリプンチャイ時代から存在していたと仮定するに十分な証拠となるばかりでなく、素焼きの奉納板や縄の文様が彫られた素焼き土器のポットが発掘されたということによって、この集落が、同じような遺物が発見された他の集落と同時代に形成された、ということの証明にもなっている。例えば、前述の素焼きの奉納板は、ヴィアン・マーノーやヴィアン・ターカーンといった場所でも発見されている。こうした同じ文様が描かれた古代の工芸品の発見から、ハリプンチャイ王国の支配下にあったこれらの集落同士が、極めて親密な関係にあったと結論を下すことができるだろう。
さらに、ワット・カーントムの発掘では、モン文字で書かれたモン族に関する記述のある遺物も見つかっている。これらの文字が、ラムプーンやヴィアン・マーノーで見つかっている遺物に残されている文字に似ていることから、ワット・カーントムの歴史がタイ暦17世紀までさかのぼることができると考えられる。この仮説は、ワット・カーントムの集落がハリプンチャイ王国時代に建設されたヴィアン・マーノー、ヴィアン・ターカーン、ヴィアン・トーと同程度の歴史を有するという理論づけをすることができるだろう。
ハリプンチャイ王国の支配権は、チェンマイ−ラムプーン盆地内部に徐々に広がっていった。北方は、現在のチェンマイ中心部、サーラピー、ハーンドン、メーリム、サンサーイ、サンカムペーン周辺にまで及び、最も遠いところでは、現在のチェンダーオ郡にまで達した。ハリプンチャイ王国の支配体制は、大きく2つのレベルに分けることができる。それは、ムアンと村であり、ムアンの下に置かれたパンナーというレベルはまだ導入されていなかった。これが導入されるのは、後のマンラーイ王の時代になってからである。国土の支配にパンナーを最初に導入したのは、シップソーンパンナー(*中国雲南省にある西双版納)のタイ・ルー族やラーンナー王国のタイ・ユアン族である。「チェンマイ年代記」(タムナーン・プンムアン・チェンマイ)によれば、ワット・カーントムの集落は大変小さく、ムアンのレベルではなく村のレベルであったらしい。マンラーイ王がヴィアン・クムカームを建設した時代、ワット・カーントムは村からムアンのレベルに発展する途中であったと考えられる。この仮説は「ムーラーサーサナー年代記」(*14世紀に執筆された)の記述によって裏づけられている。この年代記によれば、ハリプンチャイ王国はその領土をチェンマイ−ラムプーン盆地全体に拡大し、結果として多くの村々をその支配下に治めていった。ワット・カーントムの村は、約20キロ離れたムアン・ラムプーンの支配下にあり、ムアン・ラムプーンはハリプンチャイ王国の支配下にあった。ワット・カーントムの住民達は、マンラーイ王がヴィアン・クムカームを建設するまでこの場所に住み続けた。
2.マンラーイ王によるヴィアン・クムカーム建設:ハリプンチャイ文化から脱却しての発展
ヴィアン・クムカームは、マンラーイ王によって、チェンマイが建設される2年前のタイ暦1837年(西暦1294年)に建設されたが、その目的はハリプンチャイ王国にとってかわる新しい国を建設することにあった。マンラーイ王は、その都となる場所として、後にワット・カーントムとなったエリアを選んだ。前述の通り、この場所がムアンのレベルになるまでに発展を続けていたこと、村がピン川のすぐ近くにあり都市を統治するための水を簡単に得られることなどがその理由であった。
この時代、ピン川は重要な交易ルートであった。人々は、南に住む者も北に住む者も、ピン川を使って容易に移動することが可能だった。ヴィアン・クムカームは肥沃は河川渓谷に位置していた。この時代においては、稲作に適しているかどうかというのが都市形成のための重要な条件になっていた。
ヴィアン・クムカームのルーツは、社会的・文化的環境のいずれにおいてもハリプンチャイのものであり、その影響を受けていることは間違いない。すでに述べた通り、マンラーイ王はこのエリアが河川渓谷の平原にあったが故に、ここにヴィアン・クムカームの建設した。ヴィアン・クムカーム建設に適した土地を選ぶにあたって、マンラーイ王はハリプンチャイ文化がベースになった思考方法を反映した決断を下している。タイ・ユアン族は、都を建設する時には山のふもとの小さな丘を選ぶ。ヴィアン・クムカームのレイアウトは長方形をしているが、それに反してハリプンチャイ王国に支配される前のタイ・ユアン族は、彼らの都をそこの地形に適合するような形でシンプルに建設している。そして、その都市は、通常長方形ではない。
ラーンナーにおけるハリプンチャイ文化の影響は、ヴィアン・クムカームのレイアウトだけでなく、文化的な面にも見ることができる。例えば、北タイのダムマー文字はハリプンチャイのモン文字が基となっているし、ラーンナー土着の仏教のサンガ(*出家者の教団)は、ハリプンチャイのそれに起源を有している。ラーンナー芸術の分野においては、さらにハリプンチャイの影響をはっきりと見ることができる。例えば、ラムプーンのワット・ククットの長方形のチェディ(*仏塔)のスタイルは、ワット・クーカムの青写真となっているし、ヴィアン・クムカームにある8角形のチェディは、ハリプンチャイ時代に時を同じくして作られたワット・クーカム、ワット・プーピア、ワット・マイソーンでも見ることができる。こうしたことから推測すれば、タイ・ユアン文化は寛大にハリプンチャーイ文化と同化したと言えるし、同時にハリプンチャイ文化は地域の他の民族の文化と同化しながら、独自のラーンナー文化を形成していったともいうことができるだろう。
ヴィアン・クムカームは、その地理的優位性を生かして、ピン川沿いの他の都市との交易の中心地となり、ラーンナー王国の首都として全盛期を迎えた。加えて、ヴィアン・クムカームには王族の住居とタラート(*市場)、数多くの寺院が建設された。一般的に言って、こうしたできごとは都市が発展するための重要な条件である。マンラーイ王は、ヴィアン・クムカームの住民達の日常生活をしっかりと観察しながら、その支配を確固たるものにしていった。
しかしながら、ヴィアン・クムカームが首都としての重要性を維持していたのは、ほんのわずかの期間であった。マンラーイ王は、チェンマイのロケーションの方が首都としての必要条件をより満たしていると考え、遷都を行った。地質学者の調査によれば、ヴィアン・クムカームに起きた大洪水の惨事と遷都とは直接関係はないという。この大洪水は、遷都のずっと後のタイ暦2101年〜2317年(西暦1558年〜1774年)のビルマ支配下の時代に発生している。
3.マンラーイ王朝時代のヴィアン・クムカーム:その重要性
新しい首都としてチェンマイが建設された以降も、ヴィアン・クムカームは消滅したわけではなく、存在し続けた。打ち棄てられた数多くの僧院跡などから、その後もヴィアン・クムカームが発展を続けたであろうという推測が成立する。というのも、こうした僧院は、その後の時代において修復や増築が行われた形跡があるからだ。ヴィアン・クムカームそれ自体は、マンラーイ王の統治時代の終わりまで存在し続けたのであろう。
ヴィアン・クムカームはチェンマイとの距離が非常に近かったため、遷都後も王が直接支配し、衛星都市としての地位を保った。王とその一族は、休暇でヴィアン・クムカームをしばしば訪れ、街はチェンマイとともに発展していった。同時に、ヴィアン・クムカームは、チェンマイを攻撃しようと試みる外敵から身を守るための前哨地点としての役割を担うようになっていった。ヴィアン・クムカームを基地として利用することによって、敵の攻撃からチェンマイを防御することができたため、王はヴィアーン・クムカームをしっかりとその支配下に置き続けた。
4.ヴィアン・クムカームの崩壊:ビルマ支配時代の大洪水
自然災害である大洪水は、ヴィアン・クムカームを崩壊へと導いた。この大洪水は、とてつもないダメージをヴィアン・クムカームに与えた。タイ国芸術局の発掘によって、この洪水は僧院を沈殿物で埋め尽くしたことがわかっている。
僧院の本来の位置は、現在の地表面の1.5〜1.8メートル下にあった。言いかえれば、ヴィアン・クムカームは、ピン川の水面よりもかなり低い位置に建設されていたと考えられる。そのため、洪水によって受けた被害が大きくなり、ヴィアン・クムカームは廃墟になってしまった。しかも、ビルマの支配によって王国の政治的パワーは衰えてしまっていたため、それを修復することがもきなかった。興味深いことに、「チェンマイ年代記」は、ヴィアン・クムカームを襲ったこの大洪水について、まったく言及していない。ヴィアン・クムカームを荒廃させた大洪水は、ワット・タートゥイーカーンとワット・プーピアの中間である遺跡群の北西方向から流れ込んだ。そのため、両寺院の一帯は、他のエリアよりもより多くの沈殿物が堆積している。一方、東側の一帯は水が大量に流れ出たため、ほとんど何も残っておらず、発掘によってもヴィアン・クムカームの痕跡を発見することができていない。
この大洪水によって、ピン川の河床は場所が変わってしまった。もともと、ピン川はヴィアン・クムカームの北および東側を流れていたのであるが、この洪水によって現在のように西側を流れるようになったのである。この洪水は、ピン川西岸に位置していたチェンマイ、ヴィアン・クムカーム、ラムプーンの3都市を襲い、現在のようにチェンマイからヴィアン・クムカームに行くのに川を渡らずに済むようにさせたのだ。現在のピン川は、ヴィアン・クムカームとラムプーンの街のすぐ近くを通ってはいない。
5.今日のヴィアン・クムカーム
ピン川がヴィアン・クムカームのそばを通らなくなり、現在のような流れに河床を変えたのは、タイ暦2317年(西暦1774年)以降であることは明白に証明されている。街の発展と成長が、通商ルートによって決定されることからもわかる通り、ヴィアン・クムカームは徐々にその重要性を失っていった。ヴィアン・クムカームにかわって、ター・ワンターンが水深のある船着場として大きくなっていった。チェンマイとクルンテープ(バンコク)の間を行き来する船は、ター・ワンターンに錨を降ろすようになった。船着場は、人と荷物の双方にとっての乗り継ぎスポットであった。そのため、ター・ワンターンは、相対的に大きな街に発展していった。
ター・ワンターンは発展を続け、その範囲をピン・ハーンと呼ばれていたかつての河床があったエリアにまで広げていった。街は、ター・ワンターンの内部にあったワット・チェディリヤムからワット・スリーンルアン、ヴィアン・クムカームへの道路を通りすぎて、最終的にはチェンマイ−ラムプーン道路まで達した。このピン・ハーンに沿った拡張は、水深が浅くなってしまったため使われなくなったピン川のルートにかわって使われるようになったチェンマイとラムプーンを結ぶ陸上ルートを使用する必要性、という結果をもたらした。
ヴィアン・クムカームについて言えば、再び発展を続けたが、それはとてもわずかなものに終わった。ヴィアン・クムカームは、発展と成長の中心になることは2度となく、ヴィアン・クムカームを通る通商ルートはその重要性を失った。ヴィアン・クムカームへの再移民も行われたが、それはワット・チャーンカムという新しい名前をつけられた村の中心であるワット・カーントームの再建設の一環として進められた。
ヴィアン・クムカームの住民はコン・ムアン(チェンマイ人)である。彼らは、小さな集落に農民として居住した。数多くあった廃墟となった僧院は、そのまま無視され続けた。タイ暦2527年(西暦1984年)に、ラーンナータイのかつての歴史におけるヴィアン・クムカームの重要性を祝う催しが開催された。このとき同時に行われたワット・カーントームの発掘は、歴史家や一般庶民の興味を刺激した。タイ国芸術局第4部は、それからタイ暦2532年(西暦1989年)にかけてヴィアン・クムカーム周辺の発掘と修復活動を行って、現在のような姿に至っている。
≪出典≫サラサワディー・オーンサクン著「ヴィアン・クムカーム 〜ガーンスクサープラワティサーソットチュムチョンボーラーンラーンナー〜」
≪注≫カッコ内に*のあるものは引用者による注
≪各遺跡の紹介≫
■ワット・タートゥイーカーン
遺跡群の西寄りに位置し、大洪水以前のピン川の流れに正対するように北向きに建てられた寺院の跡。現在は、狭い道路沿いにあり、道を通っていると突然現れるようなカンジの遺跡になっている。遺跡には、それぞれ独立した基壇の上に建てられたヴィハーン(本尊である仏像を安置した堂)とチェディ(仏塔)があるほか、お参り(右肩を向けて時計回りに回る)のための広場も残されている。ヴィハーン跡には、高さ1メートルほどのレンガ造りの柱の跡もある。チェディは先端が欠けてしまっているが、正方形の基壇に8角形のターンブアルークケーオ(チェディの最下部)といったラーンナー様式の特徴をよくとどめている。タイ暦21世紀に建立されたと考えられている。発掘前、この遺跡は2メートルあまりの厚い砂に覆われていたが、タイ国芸術局によってタイ暦2539年(西暦1996年)に発掘・修復作業が行われた。
■ワット・タートゥカーウ
ワット・タートゥイーカーンのさらに西側、遺跡群の最西部に位置し、東を向いて建てられた寺院の遺跡。チェディ(仏塔)もターンブアルークケーオ(チェディの最下部)までがわずかに残っているだけだが、基壇だけはどの建物も原形をとどめており、チェディの前にはウボーソット(僧侶の得度式が行われる建物)があり、その左(南)側にヴィハーン(本堂)があったことがよくわかる。ヴィハーンには、近年になって安置されたと思われる仏像が安置されているが、恐らく寺院が現存した時代には、石灰を型に入れて作った仏像があったものと推測される。残っている部分から、タイ暦21世紀に建立されたと考えられる。上記のワット・タートゥイーカーンと同様、タイ国芸術局によって、タイ暦2539年(西暦1996年)に発掘・修復が行われた。写真の通り、遺跡自体はよく整備されているが、周囲を森に囲まれておりどことなくさびしい印象を受ける。
■ワット・プーピア
ヴィアン・クムカームの内部、西側のお堀と城壁に接するようにして東向きに建てられた寺院の遺跡。チェディ(仏塔)、ヴィハーン(本堂)、ウボーソット(僧侶の得度式が行われる建物)から構成されており、どれもが遺跡群の中でも比較的原形をとどめていると言え、特にヴィハーン正面の階段手前から見渡すチェディまでの風景は印象的だ。残存している遺跡に記された文様などから、建立後に改修が加えられたということがわかるが、チェディにはラーンナータイ様式の特徴が多く残っている。タイ暦21世紀に建てられたと推測され、タイ国芸術局によって2529年(西暦1986年)に発掘・修復が行われた。他の遺跡よりも整備の状態はよい。
■ワット・フアノーンの遺跡群
ヴィアン・クムカームの北東寄り、かつてのピン川の流れに面して建てられた遺跡群。ここは、他の遺跡と異なりかなり広大な敷地に遺構が散らばっており、道路をはさんで大きく4つのエリアに分けることができよう。ひとつ目は、メインのチェディ(仏塔)があるエリアで、このチェディは北向き(川に向いて)に建てられており、基壇の部分には象の装飾が施されている。ヴィハーン(本堂)の跡も残っているが規模は小さくチェディの付属品のように見える。ふたつ目は、ウボソット(僧侶の得度式が行われる建物)があるエリアで、側面に3つのエントランスを持ったモンドップ(尖塔のある方形建築物)の遺跡がすぐ隣にくっついて残っている。このエリアの建造物の残存している部分を見ると、ラーンナー様式とスコータイ様式がミックスされているように思われる。みっつ目のエリアはヴィアン・クムカームの城壁と井戸、それにメコン川をモチーフにした文様がつけられたレンガ作りのアーチから構成されている。よっつ目は、チェディ、ヴィハーン、ウボソットのグループで、四角く形どられた壁の中に収められたような状態で遺跡が残っているほか、メコン川と象をモチーフにした文様が周囲に施されたアーチの遺跡もある。これらの遺跡群はタイ暦22世紀に建造されたと考えられており、タイ国芸術局によって2531〜2532年(西暦1988年〜1989年)に発掘・修復された。周囲は草むらで、どことなくノンビリとした雰囲気の遺跡だ。
■ワット・タートゥノーイ
ワット・チャーンカムの西側、全体の位置からするとヴィアン・クムカームの南西寄りに位置するこじんまりとした遺跡。チェディ(仏塔)、および西向きに建てられたヴィハーン(本堂)から成り立っているが、どちらも基壇部分を残すのみで、その表面も雑草に覆われている。建物の構造的特徴およびわずかに残された装飾などの芸術面の特徴から、タイ暦19世紀から20世紀の間に建立されたと推測される。タイ国芸術局によって、タイ暦2528年(西暦1985年)に発掘・修復が行われた。
■ワット・クープーチャン
ヴィアン・クムカームの南部にわずかに残存している城壁に沿って続いている小道の脇にあり、ヴィアン・クムカーム全体からすると南東部に位置している。近くに遺跡は残っておらず、ポツンと取り残されたようなロケーションになっており、そのためかこれまで紹介してきた遺跡と比較して整備のレベルはやや低く、解説などもなく名前を記した小さな看板が立っているのみ。小さな階段の入口がついたヴィハーン(本堂)とナークラダーン(中央部の一番太くなっている部分)付近まで残存しているチェディが草むらの中にひっそりと残っている。
■ワット・クムカームラーン
ヴィアン・クムカームのほぼ中央部やや北寄りに位置する遺跡。写真で見てもわかる通り、うっそうとした草むらにほんのわずかに建物の基壇が残っているだけだ。タイ国芸術局がワット・カーントムに設置した遺跡の全体図には「ワット」とは書かれていないので何か別の建築物だと思われるが、残存している遺構が少ないため、残念ながら何の遺跡なのかがよくわからない。道路をはさんだ向かい側、少し奥まったところにもにも遺跡が残っているが、道路からの道がなく草が生い茂っているため、近づくことはできない。
■ワット・パヤメンラーイ&ワット・プラチャオオンカム
ヴィアン・クムカームの北東側、大洪水以前のピン川の流れに接するように、道路をはさんで並んで建立された寺院。ワット・パヤメンラーイには、チェディ(仏塔)とヴィハーン(本堂)があるが、どちらも基壇がわずかに残っているだけである。一方、ワット・プラチャオオンカムにはヴィハーンしか残存しておらず、こちらも基壇の部分しかないが、高さが1メートルほどある立派なもので、他の遺跡のヴィハーンと比較しても存在感がある。両遺跡ともとりわけ特徴があるわけではなく、周囲も草むらになっていて人の気配もほとんど感じられないような静かなロケーションになっているので、時間のない人は無理に見る必要はないだろう。
■ワット・カーントーム&ワット・チャーンカム
ヴィアン・クムカームのほぼ中央部に位置していることからもわかる通り、王都の中心となっていた寺院の遺跡。ヴィアン・クムカームの全体地図も設置されているので、遺跡巡りをするならば、まずここで全貌をつかんでおくのがよいかもしれない。ワット・カーントムの遺跡は、柱の一部までが残っているヴィハーンと基壇だけが残っているチェディがあるが、写真の通りたいへんきれいに整備されている。しかし、ここでの最大の見どころは、ラーンナータイ最初の王でありこのワット・カーントムも含めたヴィアン・クムカームを作ったマンラーイ王が建てたと言われているサーラーピー(聖霊の家)だ。このサーラーピーは、現代においてもコン・ムアン(チェンマイ人)にとって聖なる場所として尊敬を集めており、お供えを献じてお参りをする人が大勢いるという。
ワット・チャーンカムは、“歴史的背景”で述べている通り、ヴィアン・クムカーム崩壊後にこの場所に建てられた現代の寺院で、白色のチェディが印象的だ。
この遺跡を旅するためのホテルの検索・料金&空室確認、予約は……こちら(PR)
■クルー・バー・スリーヴィーチャイ
行き方……ドーイステープに向かう国道1004号線(フワイケーオ通り)沿い。チェンマイ動物園を過ぎて右にカーブし、急登が始まってから100メートルほど行った左側。
ドーイ・ステープまでの道路を建設した高僧、クルー・バー・スリーヴィーチャイの像を祭った聖地。チェンマイの人々は、この僧侶を「ナックブン・ヘン・ラーンナー」(ラーンナーの聖人)と呼んで高く敬っており、夜になると線香・ローソクなどを持ってお参りにやってくる。
クルー・バー・スリーヴィーチャイは1878年に生まれた。嵐の最中に生まれたため、“ファー・ローン”(雷)というチュー・レン(愛称)がついたという。子供の頃から、特に放生(籠に入った鳥や亀を放して功徳を積む行為)に興味を示し、熱心にそれを行った。18歳の時にラムプーン県にあるワット・バーン・パーンで学び始め、その信心深い姿勢はすぐに多くの人々からの尊敬を集めるようになった。功徳を得るために、人々が彼の行いに対するサポートを申し入れたので、彼は寺院の修復プロジェクトを立ち上げ、生涯で100以上の寺院を修復した。その中には、ラムプーンのワット・プラタート・ハリプンチャイやワット・チャマデヴィー、チェンマイのワット・プラシン、ワット・スワンドークなどが含まれている。
ドーイ・ステープまでの道路建設には、のべ5,000人以上の人々がボランティアとして参加し、完成までに5ヶ月と25日を費やした。1935年4月30日に行われたオープニング・セレモニーでは、彼の乗った自動車が先頭になって、ドイ・ステープまで登っていったという。
像の周囲には、お参りセットを売る店やおみくじの自動販売機が並んでいる。ここには、夜にお参りするのが普通なようだが、ドーイ・ステープへの道はこの像のすぐ先で閉鎖されてしまう(19:00〜06:00)。バイクなど自前の足がない場合にはソンテオをチャーターして行くのがよい。トゥクトゥクでも、急登は少しなので行けるとは思うが……(?)
ここにお参りするための格安航空券を探すならこちらで!(PR)
■ワット・パー・パオ……市中心部にあるタイ・ヤイ(シャン)寺院
行き方……堀の外周道路マニ・ノパラット通り沿い。堀の北東角からチャーンプアック門方向に100メートルほど行ったところ。
チェンマイには、ドーイ・ステープをはじめとしてスワン・ドーク、チェンマンなどいくつもの有名寺院があるが、ヴィハーン(本堂)やチェディ(仏塔)などの基本的なデザインはどこも大差がなく、人によっては「同じようにしか見えない」と、退屈してしまうようだ。
しかし、ラーンナー文化の中心地として栄えてきたチェンマイには、この地方独特の様式を持った寺院も数多く存在している。そんな中のひとつが、このワット・パー・パオである。
堀に沿って並ぶ商店街が1カ所だけ途切れたところに、木製の門と、上からカム・ムアン(ラーンナー文字)、タイ語、英語の順に寺院名が刻まれた看板が出ているので、場所はすぐにわかる。門の屋根は、写真の通り左右に4重、縦横に1重の5重になっており、この形だけを見ても普通のタイ式寺院と違うことがすぐにわかる。
門をくぐって少し進むと、左側にヴィハーン(本堂)がある。茶系の渋い色使い、中央から両端にかけて連なる、門と同様に幾重にも重ねられた屋根とどこを取っても典型的なタイ・ヤイ(シャン)様式で、その落ち着いたたたずまいは、一般のタイ式寺院よりは日本人の好みに合っているような気がする。
本堂の内部には、正面にある階段を登って入る。床はすべて木で覆われていて、ヒンヤリとした感触が実に気持ちよく、暑い日などは一度座り込んでしまうと、なかなか立ち上がることができない。
このワット・パー・パオ、詳しい来歴などはわからないが、敷地内には半分土に埋まった楼門や一般のタイ式の古い建造物も少し残っていることから、もしかするともともとはタイ・ヤイ(シャン)の寺院ではなかったのかもしれない。
「もう、タイのお寺は見飽きた」という方、タイ・ヤイ(シャン)やラーンナー文化に興味のある方には、おすすめのスポットだ。
==========
4月の初旬に訪れた際は、子供たちの出家の練習日だったようで、仏教のお勉強をしているのを目にしました。やはりビルマ人の子供が大半のようで、他のお寺とは少々雰囲気が違う子供たちでした。あちらのお坊さんも(声をかけたお坊さんの返事によると)ビルマ人と言っていました。子供たちは普段着のままでしたが、教官役の僧侶は棒を持って結構、厳しく教えていました。本堂の横にある建物で合宿をしているのだそうです。
また、ワット・パー・パオの近くには、ヒンドゥー寺院があります。 このヒンドゥー寺院は少々新しめで、さほど面白くはないかもしれません。ご本家(インドの)の寺院と比較したら、仏陀もほかの神々と同等の地位で祭られているのが興味を引きました。
この日は、チェンマイでアジア1周ツアーだね!という感じでした。
【ナームさんのレポート】
![]() | ![]() | ![]() |
![タイ北部の街、チェンマイ専門の情報サイト[サワディーチャオ チェンマイ(Sawadeechao ChiangMai)]](../img_c/header.gif)














