チェンマイおよび北タイ史概説
タイの歴史は一般に、タイ人が歴史にはっきりと出現したと見られているスコータイ時代から始まる<注>とされている。しかしながら、北タイでは、すでにこの時代チェンマイを中心に置くラーンナー(百万の水田)王国が形成されていたことからもわかる通り、それとは異なる独自の歴史が築かれていたと言えるだろう。そしてまた、通常1296年にマンラーイ王がチェンマイを建都したことから始まると記されることが多いチェンマイの歴史も、実は石器時代から連なる土着の人々と、現在の中国から断続的に移動してきたタイ系諸民族、さらには交易の要衝としての地理的特性から、ベトナムやインドからこの地に移住した人たちをも含む、実にさまざまな人間たちによって織りなされてきたということが、史料を調べていくとわかってくる。
私は、大学時代にインド中世史を専攻していたこともあって、こうしたチェンマイおよび北タイの歴史に興味を持って書物を集めてきた。チェンマイの書店をのぞいてみると、英語の文献はたくさん出ているのだが、日本語で書かれたものはまだ見かけたことがない(おそらく、論文とかはあるのだろうが……)。そこで、持っている書物をベースにして、日本語版の「チェンマイおよび北タイ史概説」をサイトの中に作ることにした。
≪おことわり≫このコンテンツは、個人的な趣味のコーナーとして、今後も文献を集めつつ、それに目を通しながら徐々に加筆していく予定です。したがって、文章は常に半完成の状態でアップされておりますので、あらかじめご了承ください。
≪注≫明石書店「タイの歴史〜タイ高校社会科教科書〜」P116
チェンマイ&北タイ史概要
ピン川渓谷は、雲南とチャオプラヤー平原とを結ぶ長い交易ルートの途中にあたる。鉄器などの考古学的な遺物から、この地域に最初に人間が居住したのは、少なくとも2000年前であると考えられる。これらの人々は「ラワ」と呼ばれており、後に紀元6世紀〜10世紀に栄えたドゥヴァラヴァティ王朝のモン族にとって代わられた。モン族は、交易ルート上の広大で豊かな渓谷にハリプンチャイ(ラムプーン)王国を8世紀に設立した。これが、この地域での最初の文化的に高いレベルの都市国家である。
この豊かな渓谷は、強力なタイ族のリーダーであるマンラーイ王にとっても魅力的なものであり、1296年に彼はハリプンチャイを征服し“新しい(マイ)都(チェン)”という名の都市、すなわちチェンマイを設立した。マンラーイ王は、都市を設立する場所として、典型的なタイ族の都市と同様に、水と森林の豊かな山のふもとを選んだ。
≪マンラーイ王≫
マンラーイ王は、北タイ先住民であるラワ族でヒラム(ヘランナ)・グン・ヤーンの領主であったラオ・メンを父に、現在の中国雲南省景洪地方にあったタイルー族の領主の娘を母として1239年に生まれた。父方の始祖はラワ・チャ・カラトと称し、その6代目の領主ラオ・キアンが西暦937年にグン・ヤーンで領土を確保した。そして、そこからさらに14代目がマンラーイ王の父となる。なお、タイの書物では現在のチェンセーンをグン・ヤーンであるとするものが多いが、考古学的には決めてはなく、むしろ対岸のラオス領も含めて考えたほうがいいと思われる。
カリスマ的な力を備えていたマンラーイは、急速にその支配力を高め、周辺の小国を征服していった。支配力の拡大に伴って、彼は1262年にはチェンラーイへ首都を移転、1272年にはファーンにも居住しチェンコーンへの派兵を指揮した。そして、1276年にはパヤオの強力なリーダー、ガム・ムアン王との同盟を結んだ。
マンラーイ王は、それまで征服した都市よりもさらに豊かで強力な都市国家であるハリプンチャイ(ラムプーン)王国を1281年に手中に収めた。
チェンマイは、ラーンナー(百万の水田)王国の首都として、15世紀までその黄金時代を謳歌した。その間、この内陸の王国は北タイ、北西ラオス、ビルマのシャン州東部、さらに雲南南部のシップソンパンナーまでを支配下に置いた。王朝の宗教はテラヴァーダ仏教で、その影響を受けた豊かな文化が王国内に花開いた。
しかしながら、ラーンナー王国は、タイのアユタヤ王国と手を組んだビルマのペグー王国のバインナウン王によって征服された。ラーンナー王国は、14世紀から15世紀にかけてアユタヤ王国と数回にわたって戦争をし、その国力を消耗させた。王朝内部の王位を巡る争いと圧政によってさらに力が弱まった王朝は、最終的に1558年、バインナウン王の手に落ちたのである。
その後1558年から1774年までのおよそ2世紀の間、チェンマイはビルマの支配下に置かれた。その間、チェンマイはビルマのアユタヤ王国との戦いのための前線基地となり、富は食いものにされた。何度か起こされた反乱も、鎮圧された。最終的に北タイはタイ族のシャム王朝と同盟を結び、ビルマを排除することに成功したが、国力があまりに弱まったため、チェンマイはすっかり打ち棄てられたような状態になってしまった。
シャム王国のサポートにより、ラムパーンのチャオ・カーヴィラはタイヤイ(シャン)族、チェントンのタイケーン族、チェントンの東のムアン・ヨンのタイヨン族らとチェンマイの再建に取り組み、公式には1796年に都市は再建された。今日、チェンマイおよびラムプーンに居住する多くの人々は、チャオ・カーヴィラのもとでこの地域に移住してきたこれらの民族の末裔たちである。
シャム王国との同盟によって、チェンマイはその力を高めていった。19世紀に入ると北部のチークの森に興味を示した西欧諸国の人々が増えていったが、シャム王国のチュラロンコーン(ラマ5世)王がチェンマイの支配権を手に入れた。19世紀の後半には、西欧諸国の人々に加え、中国からの移民が急速に増加した。シャム(1949年にタイという名前になった)との経済的な統合は、1921年に鉄道が開通したことにより、さらに堅固なものとなった。しかしながら、雲南の一地方であるシップソンパンナーのチンホン(景洪)、ビルマのチェントンなど北部都市との間の歴史的な交易ルートは政治的な壁によって、長い間閉ざされた。そのため、チェンマイは観光都市としての発展を迎える1970〜80年代まで、静かな都市としての趣を保ちつづけることができた。
1980年代以降、チェンマイは近代都市として消費文化を発展させていった。バンコクの影響がそれをさらに促進させている。現在、チェンマイの人口はおよそ150万人に達し、そのうち約20万人が市部に居住している。チェンマイが建都されて700年が過ぎ、かつてラーンナー王国が勢力範囲においていた中国(雲南)、ビルマ、ラオスなどとの交易ルートの再開も期待されている。
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チェンマイ&北タイ歴史年表
| 767年 | ロッブリー(中部タイ)王朝の王女チャマデヴィーによって招かれた隠者たちによってラムプーン(ハリプンチャイ)が建設される<注:9世紀はじめとの説もあり> |
| 1239年 | マンラーイ王(在位:1259年〜1317年)生まれる |
| 1259年 | マンラーイ王がグン・ヤーンの王となる |
| 1262年 | マンラーイ王、チェンセーンからチェンラーイに遷都 |
| 1268年 | マンラーイ王、ファーンに居住し、チェンコーンへの派兵を指揮する |
| 1281年 | マンラーイ王、ハリプンチャイ王国を制服 |
| 1288年 | マンラーイ王、首都をヴィアン・クムカームに移す |
| 1296年 | マンラーイ王、チェンマイを建設 |
| 1345年 | パー・ユ王(在位:1337年〜1355年)がワット・プラ・シンを建立。その息子のクー・ナ王治世から始まるラーンナー王朝黄金時代の基礎を築く |
| 1371年 | クー・ナ王(在位:1335年〜1385年)が、ラーンナー文化に大きな影響を与えたシンハラ(スリランカ)系仏教の僧侶プラ・スマーナ・テラのためにワット・スアン・ドークを建立する |
| 1385年 | セーン・ムアン・マー王(在位:1385年〜1401年)、アユタヤの攻撃を退ける |
| 1387年 | セーン・ムアン・マー王、スコータイに攻撃をしかけるが、失敗に終わる |
| 1405年 | サム・ファン・ケーン王(在位:1401年〜1441年)、雲南の軍隊を撃退し、ラーンナー王朝を統合する |
| 1449年 | ティロカラート王(在位:1441年〜1487年)、ナーンを征服しラーンナー王朝絶頂期を迎える。この王の時代、数々の仏教美術が制作され、寺院が建立された |
| 1477年 | 第8回世界仏教徒会議がワット・チェット・ヨートで開催される。仏法経典が改訂され、ラーンナー文化の発展が頂点に達する |
| 1495年 | ムアン・ケオ王(在位:1495年〜1526年)、美術などへのサポートを熱心に行うラーンナー王朝最後の王となる。その後継者であるチェタラット王(在位:1526年〜1538年、1543年〜1545年)は彼の息子により退位させられいったんは王位を退くが、後に再び王位につくものの、結局は暗殺される |
| 1545年 | 地震により、ワット・チェディルアンがダメージを受ける。シャン王朝の王子とアユタヤからチェンマイが攻撃されるがともに退ける |
| 1546年 | ランサーン王国の首都ルアンプラバーンのセッタティラート王、侵略によってラーンナー王朝の王位につくが、1年後父親が死去したためラオスに戻る。このころ、周辺の都市の豪族とラーンナー王国との間で市民戦争が頻発する |
| 1551年 | ローカルの首長によって支配者として招かれたプラ・メクティ(在位:1551年〜1564年)が圧迫的な支配を行いはじめる。彼は“市の柱”への参拝を禁止し、このことがチェンマイの未来を不幸なものにしたと考えれている |
| 1558年 | チェンマイ、戦うことなしにビルマに征服される。マンラーイ王の血をひいた最後の末裔メクティ王子はビルマの家臣としてその力を残す |
| 1564年 | メクティ王子、ビルマに対して反乱を試みるが失敗に終わり、退位させられる。それ以降、バインナウン王によってアユタヤが征服するまで、チェンマイはそのための基地として利用される |
| 1598年 | アユタヤ王朝のナレスアン王(在位:1590年〜1605年)、チェンマイを征服する |
| 1614年 | チェンマイ、ビルマによって征服される |
| 1661年 | アユタヤ王朝のナライ王(在位:1656年〜1688年)チェンマイを奪還し、わずかの期間支配下に収める |
| 1767年 | ビルマ、アユタヤを破壊する。タクシン王はトンブリーで再び軍を結成しその力を蓄える |
| 1774年 | チェンマイのプラヤー・チャバンとラムパーンのチャオ・カーヴィラ、シャム王朝の助けを得てビルマを撃破する |
| 1776年 | チェンマイ、廃墟となる |
| 1796年 | チャオ・カーヴィラ(在位:1781年〜1815年)、チェンマイを再建する |
| 1868年 | チュラロンコーン王(ラマ4世、在位1868年〜1910年)タイを近代国家にするためのさまざまな政策を実行する |
| 1871年 | チャオ・インタヴィチャヤノーン(在位:1871年〜1897年)、チェンマイの半独立した最後の王となる |
| 1874年 | シャム王朝の高等弁務官、ラーンナーの支配権を完全に奪いはじめる |
| 1885年 | 電報がチェンマイにも届くようになる |
| 1892年 | シャム王朝、ラーンナーを“モントン・パヤップ”という支配構造の中に組み入れる |
| 1893年 | フランス、シャムにラオスを割譲させる。その地域の中にはかつてラーンナー王朝が支配していたエリアも含まれていた |
| 1902年 | タイ北部最後の独立運動として、シャン族による反乱が起きる |
| 1921年 | 鉄道がチェンマイまで敷設される。義務教育制度が作られる |
| 1932年 | チェンマイ、シャムの一地方となる |
| 1946年 | ブミポン・アデュンヤデート、シャムのラマ9世となる(タイランドという名前が公的に認められたのは1949年) |
≪参考文献≫
Hans Penth 「A Brief History of Lan Na」 Silkworm Books
Oliver Hargreave 「Exploring Chiangmai 〜City,Valley&Mountains〜」 Within Books
Michael Map 「Windows Of Chiangmai 〜The Hidden Treasure〜」
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